坐禅は瞑想ではなく、構造的な孤独です。

禅と精神性

坐禅で、足が痺れた。

誰も、代わってくれない。

その当たり前を、私は会社で、ずっと忘れていた。

比叡山の居士林に入ったのは、もう何年も前のことになる。

人事を20年以上やってきて、肩書きだけは立派になり、判子の数だけが増え、しかし夜中に目が覚めて天井を見ている時間だけが、年々長くなっていた。

きっかけは、たぶん父の死だ。

家業のごたごたと、会社の人事と、妻子との距離が、同じ時期にいちどに来た。

何かを整理したかったわけではない。

ただ、しゃべるのをやめたかった。

居士林は、しゃべらない。

挨拶もしない。

目も合わせない。

寝起きする板間があり、線香の匂いがあり、廊下の冷たさがあり、隣で坐っている人の咳がある。

それだけだ。

坐禅というと、世間では「瞑想」と紹介される。

雑念を手放してリラックスする時間、というような書かれ方をする。

書店の自己啓発の棚に、そういう本が並んでいる。

私はそれを見るたび、少し違う、と思う。

私の実感で言えば、坐禅は瞑想ではない。

構造的な、孤独だ。

そこには、助けてくれる人がいない。

痺れた足を、誰もさすってくれない。

わいてくる雑念を、誰も止めてくれない。

腹が立っている自分を、なだめてくれる部下もいない。

線香が一本燃え尽きるまで、自分の足と、自分の頭と、自分の呼吸だけが、目の前にある。

それだけが、ある。

会社という場所では、これがない。

会社にいると、痺れた足は、誰かが代わってくれる気がしてくる。

実際には誰も代わってくれていないのに、組織の動線というのは、そう錯覚させるようにできている。

決裁の判子は順番に回り、責任は分散され、議事録は誰かが取り、結論はみんなで決めたことになる。

20年以上、人事をやってきて、いちばん怖いと思ったのは、不祥事でもクレームでもなく、

「あれ、これ、最終的に誰が決めたんだっけ」

という会議が、年々増えていったことだ。

決めていない。

誰も。

ただ、流れていた。

私もその一人だった。

居士林で痺れた足を抱えて、私はそれを思い出していた。

足は誰も代わってくれない。

これは、当たり前のことだ。

しかし、その当たり前を、私は会社で、本当に長いあいだ忘れていた。

部下のせいにしたことがある。

上司のせいにしたこともある。

業界のせいにし、時代のせいにし、家庭のせいにし、最後には自分の年齢のせいにした。

そうやって、痺れた足を、誰かに渡そうとしていた。

組織には、それを許す優しさがある。

優しさという顔をした、構造的な甘さがある。

ホテルや冠婚葬祭という仕事は、特にそれが強い。

「お客様のため」という言葉で、いくらでも責任の所在がぼやけてしまう。

「お客様のため」と言えば、なんとなく善になり、なんとなく免責される。

私はそれを、何百回も聞いてきたし、何百回も口にしてきた。

居士林の板間で、私は自分の足と二人きりだった。

お客様も、部下も、上司も、妻も、子もいない。

ただ痺れがあり、雑念があり、線香が短くなっていった。

そのとき、ふっと出てきた言葉がある。

「これは、寂しいんじゃないな」

寂しいのではなかった。

ただ、自分の責任の輪郭が、急にくっきりして見えた、というだけだった。

私の足は、私のものだ。

私の判断は、私のものだ。

私が雇うと決めた人間も、私が辞めさせると決めた人間も、私のものだ。

2,000人ほど面接をしてきたけれど、最終的に「採る」「採らない」と腹で決めたのは、結局のところ、私だ。

数字も同じだった。

20代の頃、Amazonで年商2億のショップを動かしていた時期がある。

あの数字は、会社の数字でもあり、チームの数字でもあったが、最終的に「在庫を持つ」「値段を下げる」と決めて判子を押したのは、私だった。

うまくいったときはチームのおかげにし、うまくいかなかったときは市況のせいにしていたけれど、

判子を押した指は、私の指だった。

居士林の板間に、それが返ってきた。

ここからが、たぶん、本題だ。

私たちは今、AIに何でも相談できる時代に入っている。

私自身、50を過ぎてからAIを業務に使い始めた口だ。

便利だと思う。

評価面談の前に、相手の発言の傾向をAIに整理させる。

退職届を出した若手の心情を、AIに何パターンも推測させる。

夜中に目が覚めて、誰にも言えない迷いを、AIにだけ打ち明けることもある。

AIは、否定しない。

AIは、ため息をつかない。

AIは、こちらが何度同じ話を繰り返しても、嫌な顔をしない。

これは、優しい。

本当に、優しい。

しかし、優しいだけに、危ない。

AIは、痺れた足を、代わってくれる気にさせる。

実際には代わっていない。

ただ、代わってくれた気にさせる。

会社の構造的な甘さと、AIの構造的な優しさが、いま重なりつつある。

その重なりの中で、管理職や経営者がいちばん最初に失うのは、

「自分だけが引き受けなければいけないこと」

の輪郭だと、私は思っている。

人を採るか、採らないか。

人を残すか、辞めさせるか。

事業を続けるか、たたむか。

これは、AIに相談していい。

材料を集めるところまでは、むしろ積極的に使ったほうがいい。

しかし、最後の判子は、自分の指で押さないといけない。

その判子の重さは、痺れた足の痛さと、同じ種類のものだ。

代わってもらえない、という一点で、同じものだ。

だから私は、AIの時代だからこそ、

あえて孤独になる時間が要る、と思っている。

寺に行けと言っているのではない。

居士林に泊まれと言っているのでもない。

そんな時間は、管理職にはない。

ただ、一日のうちに10分でいい。

スマホを置き、AIを閉じ、部下も家族もいない場所で、

「これは、最後は誰が決めるのか」

を、自分の頭の中だけで、ぐるぐるさせる時間。

答えが出なくていい。

むしろ出ないほうがいい。

雑念が出てきていい。

痺れてきていい。

その10分のあとで、もう一度AIを開けば、AIはまた優しく付き合ってくれる。

ただ、その10分を持った人と、持たなかった人とでは、

同じAIを使っていても、最終的に出てくる判子の重さが、まるで違ってくる。

私はそう、信じている。

明日、10分でいい。

誰にも助けてもらわない時間を、自分のために取ってほしい。

足は痺れるかもしれないが、

その痺れだけは、誰にも渡さなくていい、自分のものだから。

コメント

タイトルとURLをコピーしました