居酒屋の大将に「最近どう?」と聞かれて、本音が出た夜

日常と仕事

「お客さん、最近どう?」

カウンターの向こうで、大将は、煮物の鍋をかき混ぜながら、そう聞いた。

私は、自分でも驚くほど素直に、「最近、ちょっと、しんどいです」と返していた。

出張先の、駅から少し外れた路地の、カウンター七席だけの店だった。

仕事で月に一度は来る街なのに、その店に入ったのは初めてだった。

別に深い理由はなかった。

ホテルの近くで、暖簾の色がよくて、ガラス越しに見えた湯気が、なんとなく、よかった。

それだけだった。

入って、突き出しを出されて、燗を一合頼んで、五分くらい経ったときに、その「最近どう?」が、来た。


不思議な話だ。

私は、五十二歳だ。

総務部長兼人事責任者を、もう七年やっている。

人事の仕事は、通算で二十二年になる。

面接した人数は、二千人を超えた。

「本音を引き出す」ことを、仕事として、ずっとやってきた人間だ。

その私が、家にも会社にも言えなかった「しんどい」を、初対面の、名前も知らない大将に、酒一合も飲まないうちに、こぼした。

しかも、聞かれたのは、たった一言だ。

「最近どう?」

これだけだ。

会社の1on1で、私が、新任の課長に、どれだけ丁寧に問いを設計しても、出てこないやつだ。

「最近、業務量どう?」「キャリアで悩んでることない?」「家庭の方は大丈夫?」

全部、空振りする。

「大丈夫です」「特にありません」「問題ないです」。

それが、現場のリアルだ。

なのに、大将の「最近どう?」には、勝手に口が動いた。


家には、もう三年、妻と娘は住んでいない。

別居だ。

離婚届は、出していない。

出さないまま、月に一度、生活費を振り込んで、たまにLINEが来て、たまに返す。

その状態を、会社の誰も知らない。

部下も知らない。

人事部の同僚も、たぶん、知らない。

知られたら、どうなるとも思っていない。

ただ、言う必要がない、と思って、言わずに、三年が来た。

会社で「家族、元気?」と聞かれたら、「ええ、まあ」と答える。

それで、会話は終わる。

向こうも、別に、本気で聞いていない。

社交辞令の、儀式みたいなものだ。

それと、大将の「最近どう?」は、何が違ったのか。

帰りの新幹線で、ずっと、それを考えていた。


たぶん、四つ、ある。

一つ目は、大将が、私の答えを、期待していなかったこと。

煮物を、かき混ぜながら、聞いた。

顔も、こっちを向いていなかった。

「ちゃんと答えてほしい」という圧が、ゼロだった。

会社の1on1は、逆だ。

向き合って、目を見て、メモを取る用意までして、「さあ、話してください」とやる。

あれは、もう、面接だ。

本音が出るわけがない。

二つ目は、利害がなかったこと。

私が何を言っても、大将の評価は、変わらない。

私の査定も、昇進も、家族の生活も、影響を受けない。

これが、でかい。

会社の誰かに「しんどい」と言った瞬間、その情報は、必ず、どこかで、私の立場に跳ね返ってくる。

部下に言えば、部下が不安になる。

上司に言えば、「あいつ、そろそろ限界か」と判断材料にされる。

同僚に言えば、噂になる。

「しんどい」は、五十代の管理職にとって、コストが高すぎる言葉なのだ。

大将に言っても、誰にも跳ね返らない。

三つ目は、明日にはお互い忘れる関係だったこと。

私が、次にあの店に行くのは、半年後か、一年後か、もしかしたら、もう一生行かないかもしれない。

大将も、たぶん、私の顔は覚えていない。

「継続的な関係」というプレッシャーが、ない。

これが、本音の蓋を、ゆるくする。

四つ目は、「ながら聞き」だったこと。

煮物の鍋。

包丁の音。

湯のみに注がれる、白湯の温度。

カウンターには、生活の音が、ずっと流れていた。

その「ながら」の空気が、こちらに「答えなきゃいけない」という構えを、取らせなかった。

会社の会議室の、しんとした空気とは、真逆だ。


私は、二十二年、人事をやってきて、たぶん、ずっと逆をやっていた。

向き合って、目を見て、ちゃんと聞こう、としていた。

それが、本音を遠ざけていた、と、五十二歳になって、ようやく気づいた。

恥ずかしい話だ。

二千人面接して、いまさら、居酒屋の大将に、教わっている。


AIに「最近どう?」と打ち込むこともある。

正直に言えば、ある。

別居のことも、書いたことがある。

AIは、ちゃんと答えてくれる。

しかも、夜中の三時でも、応えてくれる。

これは、本当に、ありがたい。

ただ、あの夜の、煮物の湯気と、湯のみの、ほんのり熱い感触と、大将の、こちらを見ない横顔と、同じものは、出てこなかった。

画面の向こうには、料理を作る音が、ない。

私の言葉に、誰かの生活が、流れていない。

AIの応答は、優しいけれど、無音だ。

無音は、ときどき、寂しい。

たぶん、これからの時代、AIに本音を吐く五十代は、増える。

私もその一人だ。

それは、悪いことじゃない。

ただ、AIに吐けることと、人にしか吐けないことは、たぶん、別物だ。

その「別物」を、混ぜないで、両方、持っておけるかどうか。

そこが、これから先の、私たちの分かれ目になる気がする。


明日、月曜の朝、また会議がある。

新任の課長との、1on1も入っている。

向き合って、目を見て、メモを取る、いつものやつだ。

たぶん、いきなり、煮物の鍋を持ち込むわけにはいかない。

でも、一つだけ、やってみようと思っていることがある。

「答えを期待しない問い」を、一つだけ、混ぜる。

「最近どう?」と、こちらが、別の作業をしながら、ぽつりと聞く。

向こうが答えても、答えなくても、追いかけない。

それだけだ。

それだけで、何かが変わるかどうか、わからない。

変わらないかもしれない。

でも、五十二歳の私が、あの夜の大将から教わったことを、月曜の朝に持ち帰れるとしたら、それくらいしか、ない。

家族のことは、まだ、どうなるかわからない。

会社のことも、わからない。

ただ、駅の近くに、暖簾の色のいい店が、また、どこかにあるなら、私は、たぶん、また入る。

そして、また、「最近どう?」と、聞かれたい。

その一言で救われる夜が、五十代には、たしかに、ある。

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