老舗の看板に、ホコリが積もっていた日

伝統産業

父が亡くなって、3日目。

工房の前に立った私が、最初に見たのは——

看板に、ホコリが、積もっていることだった。

その看板は、私が子どもの頃から、ずっとそこにあった。

木の地に、黒い文字。

何代か前のご先祖が、誰かに頼んで彫らせたものらしい。

私はそれを、特別なものだと思って育ったわけではない。

ただ、家の一部だった。

空気のように、そこにあった。

その看板に、ホコリが積もっている。

私は、最初それが、何を意味するのか、わからなかった。


父が生きていた頃。

看板にホコリが積もっていたことは、たぶん、一度もなかったと思う。

別に父が、毎朝、雑巾を持って看板を拭いていたわけではない。

そんな姿は、見たことがない。

でも、ホコリは、積もっていなかった。

なぜか。

たぶん、日常が、回っていたからだ。

職人が朝、戸を開ける。

材料が運び込まれる。

お得意さんが、ふらっと顔を出す。

近所のばあさんが、勝手口から声をかける。

人の出入りが、空気を動かす。

空気が動いていれば、ホコリは、そう簡単には積もらない。

看板は、誰かが拭いて綺麗なのではなく、

日常が、勝手に綺麗にしていた。


父が倒れて、1か月。

工房は、半分、止まっていた。

職人さんたちは、出てきていた。

でも、新しい仕事は、入ってこなかった。

私はそのあいだ、本業の会社の仕事があって、

ほとんど顔を出せなかった。

電話で、母とは話していた。

「お父さん、もう長くないかもしれない」

「うん」

「工房、どうする?」

「……どうもこうも、まだ何も言えん」

そういう、会話だった。

具体的なことは、何も、決まっていなかった。

決められなかった、というのが、正しい。


父の葬式が終わって、

親戚が帰って、

家のなかが、急にしんとなった。

私は、礼服のまま、工房まで歩いた。

家から工房までは、歩いて数分。

子どもの頃、何百回も歩いた道だ。

途中で、何人かに会った。

お悔やみを言ってくれた。

私は、頭を下げた。

そして、工房の前に、立った。

そこで、看板を見た。

ホコリが、積もっていた。

たった1か月で。

たった、それだけの時間で。

私は、その場で、立ち尽くした。


そのとき、私の頭のなかは、

「継ぐかどうか」を、迷ってはいなかった。

そんな大きな話は、まだ、考えられる状態じゃなかった。

私が迷っていたのは、もっと、はるかに小さなことだった。

——この看板を、いま、拭くべきだろうか。

それだけだった。

拭けば、たぶん、すぐにきれいになる。

ホコリは、まだ薄い。

でも、拭くということは、

「ここに、関わる」ということだ。

拭かなければ、ただ通り過ぎられる。

でも、一度、袖を伸ばして拭いてしまったら、

私は、たぶん、ここから、抜けられなくなる。

50を過ぎた人間の勘というのは、

そういうところで、妙に働く。

何かを始めることは、何かを終わらせないこと、と、ほとんど同じだ。

私は、しばらく、立っていた。

そして、何も決められないまま、

礼服の袖を、看板に当てた。

軽く、ひと拭きした。

ホコリは、思ったよりあっさり、落ちた。

下から、黒い文字が、出てきた。

私が子どもの頃から、ずっと見ていた、あの黒い文字だった。

それを見たとき、私は、決めたわけじゃない。

決められたわけでもない。

ただ——

「とりあえず、戻ってきた」

という、サインのようなものが、自分のなかで、立った。

それだけだった。

それだけだったが、それで、十分だった。


あれから、何年か経って、

私は、本業の会社で、AIを使うようになった。

工房のほうにも、少しだけ、入れている。

驚いたのは、業績データのことだ。

売上、原価、稼働率、在庫の動き。

今までは、月末にならないと、わからなかった。

それも、紙の伝票を、

事務のばあさんが、電卓で、合計してくれていた。

それが今は、ほとんど瞬時に、出る。

去年と比べて、どうなのか。

3年前と比べて、どうなのか。

季節要因を抜くと、どうなのか。

AIに聞けば、グラフまで描いて、説明してくれる。

私の世代の人間が、20代の頃に憧れた「経営の見える化」が、

たった数年で、当たり前になった。

ありがたい時代だと、本気で思う。


ただ、最近、思うことがある。

数字は、すぐに出る。

でも、「看板のホコリ」は、AIには、映らない。

工房の戸の建てつけが、少し悪くなってきている。

職人さんの口数が、先月より、少し減っている。

お得意さんから、年賀状が、1枚来なかった。

そういう、ごく小さなサインは、

数字になる前に、現場に、出る。

数字になったときには、もう、手遅れに近い。

「看板のホコリ」とは、つまり、そういうことだったのだと、

今は、わかる。

父が生きていた頃の、あの「日常が空気を動かしていた状態」は、

データには、絶対に載らない。

載るのは、それが止まったあと、

売上が落ち始めてから、ようやくだ。

AIは、止まったあとの動きを、誰よりも早く教えてくれる。

でも、止まる前の予兆を拾うのは、

やっぱり、人間が、現場に立つしかない。


後継ぎの仕事は、たぶん、

派手なリブランディングとか、

新商品開発とか、

そういう話より、ずっと手前にある。

毎朝、自分の会社の「看板にあたるもの」を、

ちゃんと見られているか。

そこにホコリが積もり始めていないか。

積もり始めていたら、

決断は、まだできなくていいから、

とりあえず、袖で、ひと拭きしてみるか。

そのひと拭きが、

「とりあえず、戻ってきた」のサインになる。

決断より、所作のほうが、先に立つ。

それでいい、と、私は思っている。


明日、もしよかったら、

ご自身の会社の「看板にあたるもの」を、ひとつだけ、見てみてほしい。

看板そのもの、でなくてもいい。

入口のマット。

事務所の電話機。

会議室の時計。

社員が毎朝、最初に触れる、何か。

そこに、ホコリが、薄く積もっていないか。

積もっていたら、

決断は、要らない。

袖で、ひと拭き、するだけでいい。

私の経験では、

そのひと拭きから、なぜか、次の一歩が、始まる。

うちの工房の看板は、いま、ホコリが、積もっていない。

特別な掃除をしているわけではない。

ただ、人の出入りが、少しずつ、戻ってきた。

それだけだ。

それだけの話だが、

50を過ぎた人間にとっては、

それが、けっこう、希望なのだ。

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