坐禅は、上司には教わらない管理職研修だ

禅と精神性

坐禅で、足が痺れた。

痛みから逃げたくて、心が暴れた。

部下の話を聞けない自分が、そこにいた。

比叡山の居士林。

朝の薄暗いお堂で、私は足を組んで座っていた。

最初の十分は、まだよかった。

二十分を過ぎたあたりから、足の感覚がなくなっていく。

正座でも、あぐらでもない。

組んだ足の、膝の裏が、じんわりと熱を持って、やがて痺れる。

体を少しでも動かしたい。

その「動かしたい」という気持ちだけで、頭がいっぱいになる。


私は、管理職研修というものを、数えきれないほど企画してきた。

外部の講師を呼ぶ。

「傾聴のスキル」「フィードバックの技法」「1on1の進め方」。

立派なレジュメ。

ロールプレイ。

最後にアンケート。

「大変参考になりました」に丸がつく。

それで終わり。

悪い研修ではない。

でも、ずっと引っかかっていた。

研修で習ったことが、現場で、まるで使われていないのだ。

「部下の話は最後まで聞きましょう」と習った課長が、翌週には部下の言葉を遮っている。

本人に悪気はない。

ただ、できないのだ。

スキルとして「知っている」ことと、その場で「できる」ことの間には、深い谷がある。


なぜ、できないのか。

ずっと考えてきて、ひとつの答えにたどり着いた。

管理職に本当に足りないのは、スキルではない。

「耐える力」だ。

部下の話を聞けない上司は、聞き方を知らないのではない。

沈黙に、耐えられないのだ。

部下が言葉に詰まる。

数秒の沈黙が生まれる。

その数秒が、こわい。

気まずい。

だから、つい先回りして言ってしまう。

「つまり、こういうことだろ」

「それなら、こうすればいい」

答えを出した気になって、安心する。

でも部下は、本当に言いたかったことを、飲み込んでいる。


坐禅で、私はそのことを、体で思い知った。

お堂の中は、完全な沈黙だった。

物音ひとつしない。

最初、その静けさが、心地よかった。

でも、すぐにわかった。

静かなのは、お堂の中だけだ。

私の頭の中は、ちっとも静かじゃない。

雑念が、次から次へとわいてくる。

明日の会議のこと。

返していないメールのこと。

さっき足を組み替えた音が、隣の人に聞こえなかっただろうか。

そういえば、あの案件はどうなったか。

考えるな、と言われても、考えてしまう。

雑念を消そうとすると、かえって増える。

指導してくださった方は、こう言った。

「雑念は、消さなくていい。わいてきたな、と気づいて、ただ見送りなさい」

消すのではなく、眺める。

追いかけるのでもなく、戦うのでもなく、ただ通り過ぎるのを待つ。

それが、こんなにも難しいとは思わなかった。


三日目だったと思う。

足の痺れにも、沈黙にも、少しだけ慣れてきた頃。

ふと、気づいたことがあった。

これは、人の話を聞く時と、まったく同じだ。

部下が話している。

私の頭の中では、雑念がわいている。

「次に何を言おう」

「この話、結論はどこだ」

「早く終わらないかな」

その雑念を追いかけている限り、私は部下の話を聞いていない。

聞いているふりをして、自分の頭の中を見ているだけだ。

雑念を消す必要はない。

ただ、「あ、今わいたな」と気づいて、見送る。

そして、目の前の相手に、意識を戻す。

坐禅でやっていたのは、それだった。

世のどんな傾聴研修より、それは「聞く力」の本体に近かった。


坐禅でやることを、もう一度書く。

動かずに、座る。

沈黙に、耐える。

わいてくる雑念を、ただ眺める。

たったそれだけ。

でも、この三つは、そのまま管理職に必要な力だ。

動かずに座る——部下の話を、途中で遮らずに、最後まで聞く力。

沈黙に耐える——すぐに結論を出さず、相手が言葉を見つけるまで待つ力。

雑念を眺める——自分のいらだちや焦りを、一歩引いて見る力。

レジュメには載っていない。

ロールプレイでも身につかない。

体で、座って、痺れと沈黙の中で、ようやく少しわかる。

坐禅は、上司には教わらない管理職研修だ。

むしろ、どんな上司よりも、正直に教えてくれる。

「お前は、まだ聞けていない」と。


ここで、AIの話をしたい。

私は五十歳でChatGPTに触れ、今は仕事でも毎日使っている。

正直に言う。

AIは、優秀な部下より、よく気が利く。

指示の出し方を聞けば、整った答えが返ってくる。

部下への伝え方を相談すれば、角の立たない言い回しを考えてくれる。

会議の段取りも、評価コメントの下書きも、あっという間だ。

「答えを出す」という仕事は、これからどんどんAIに移っていく。

それは、もう止まらない。

では、管理職の仕事は、なくなるのか。

ならない、と私は思う。

AIにできないことが、はっきりしてきたからだ。

AIは、答えを出すのは速い。

でも、答えを「出さずに待つ」ことができない。

部下が言葉に詰まったあの数秒。

本音が出かかっている、あの沈黙。

そこで黙って待てるのは、人間の上司だけだ。

AIは沈黙しない。

聞けば、必ず何か返してくる。

でも、人の本音は、急かされると引っ込む。

沈黙に耐えて、相手が自分の言葉で話し出すのを待つ。

それは、坐禅でやっていたことそのものだ。

そして、AIには代われない仕事だ。

答えを出す管理職は、いらなくなる。

沈黙に耐えられる管理職が、これから必要になる。


最後に、ひとつだけ提案したい。

坐禅をしに比叡山へ行け、とは言わない。

それはなかなか、できることではない。

そのかわり、明日の会議で、ひとつだけ試してほしい。

部下が話し終えたとき。

あるいは、部下が言葉に詰まったとき。

すぐに口を開かず、心の中で、三つ数える。

一、二、三。

たった三秒。

その三秒は、たぶん、ものすごく長く感じる。

気まずい。

何か言いたくなる。

体を動かしたくなる。

それでいい。

その「耐えにくさ」こそが、坐禅で足が痺れたときの、あの感覚だ。

その三秒に耐えられたとき。

部下は、さっきより少しだけ、本当のことを話し出すかもしれない。

管理職研修は、お堂に行かなくても、明日の会議室で始められる。

座らなくても、三秒、黙ってみる。

それだけで、十分に、はじめの一歩になる。

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