比叡山で、米を噛んだ。
甘い、と思った。
その甘さを、私は、何年、忘れていたのだろう。
居士林に入った初日、四時に起きて、外に出た。
山の空気が、肌に刺さるように冷たかった。
「冷たい」という言葉では足りない、と思った。
肌の表面のひとつひとつの毛穴が、ぜんぶ起きていく、あの感じ。
東京で、いや、会社で、私は、この感覚を最後にいつ味わっただろう。
たぶん、二十年は味わっていない。
寒ければ上着を着て、暑ければエアコンを入れて、私は、感覚を、ぜんぶ「処理」していた。
感じる前に、消していた。
修行というと、何か特別なものを得る、悟る、超える、というイメージがあると思う。
私もそう思って山に入った。
五十を過ぎて、人事の仕事に疲れていた。
二千人近い面接をしてきて、人を見すぎた。
そのくせ、自分のことは、よくわからなくなっていた。
家族とも、うまくいかなくなっていた。
何か、突破口がほしかったのだと思う。
「悟りたい」とまでは言わないが、「変わりたい」とは思っていた。
でも、修行は、私に何も「与え」なかった。
ただ、忘れていたものを、ひとつずつ、返してくれた。
それだけだった。
無言の食事の時間がある。
しゃべるな、音を立てるな、と言われる。
最初は、ただ気詰まりだった。
二日目に、米を噛んだ。
ゆっくり、三十回くらい噛んだら、口の中で、米が溶けてきた。
甘い、と思った。
子供の頃に食べていた、新米のあの甘さだった。
私は、ふだん、米を食べていなかったのだ、と気づいた。
口に入れて、噛んで、飲み込んでいた。
それは「食べる」とは違う何かだった。
坐禅を組んでいて、足が痺れた。
最初は、痺れがいやで、組み直したくて仕方がなかった。
三日目、痺れたまま座っていたら、ふと、「ある」と思った。
足が、ここに、ある。
しびれは、足が「ある」というサインだった。
私は、日常で、自分の足が「ある」ということすら、忘れていた。
歩く時、走る時、立っている時、足は使われていたが、「感じられて」はいなかった。
夜、布団の中で、隣の人の息遣いが聞こえた。
宿坊の薄い布団は、隣との距離が近い。
最初は、うるさいと思った。
でも、四日目には、その息のリズムが、私を眠らせてくれていた。
誰かが、隣で、生きている。
ただ、それだけのことが、これほど安心するものか、と思った。
会社では、隣の席に人がいても、私はその人の呼吸を感じていなかった。
人を、人として、感じていなかった。
数字として、役割として、課題として、見ていた。
修行が終わって、山を下りる日、住職の方は、たいしたことは言わなかった。
「忘れないでくださいね」
それだけだった。
何を忘れないのか、はっきりとは言わなかった。
でも、私は、なんとなくわかった気がした。
感じる、ということを、忘れるな、と言われた気がした。
下界に戻って、半年経った。
正直に言うと、ほとんど忘れている。
冷気は、エアコンの設定温度になり、米は、また流し込むものに戻り、足は、痛みがあるときだけ意識される。
人の呼吸は、また、聞こえなくなった。
修行は、魔法ではない。
一度やったから、ずっと続く、というものではない。
ただ、ひとつ、変わったことがある。
「忘れている」ということに、気づけるようになった。
これは、けっこう大きい。
「あ、いま、自分は、なにも感じていない」
そう気づける瞬間が、一日に何度かある。
その瞬間、私は、ちょっと立ち止まれる。
それだけのことだが、これは、修行をする前にはなかったものだ。
AIが、毎日、私の仕事を変えていく。
便利だ。
ありがたい。
人事の現場で、ChatGPTにずいぶん助けられている。
でも、同時に、私は、AIに「感覚」を渡してしまいそうになる。
文章を読んで「いい」と感じる前に、AIに要約させる。
人の言葉を聞いて「変だな」と感じる前に、AIに分析させる。
便利になるたびに、自分の感覚が、ひとつずつ、奪われていく感じがある。
奪われている、というより、自分から、差し出している。
そっちのほうが、楽だからだ。
情報は、これからも増え続ける。
判断の量も増える。
その中で、私たちが、最後に守るべきものは、たぶん、「感じる」という働きだ。
「考える」はAIが手伝ってくれる。
でも、「感じる」は、自分の身体でしかできない。
だから、修行に行け、と言いたいわけではない。
時間も金もかかるし、誰にでも勧められるものではない。
ただ、「感覚を取り戻す装置」を、ひとつ、生活の中に持っておくといい、と思う。
それは、散歩でいい。
料理でいい。
手で書くメモでいい。
風呂で湯船に浸かる三分でいい。
「いま、自分は、何を感じているか」
そう問い直す、小さな仕掛け。
それがあるだけで、人は、自分を取り戻せる。
明日の朝、コーヒーを淹れる時、最初の三秒だけでいい。
香りに、意識を向けてみてください。
ただ、それだけ。
何かを得ようとしなくていい。
ただ、自分が、いま、コーヒーの香りを嗅いでいる、ということに気づくだけでいい。
その三秒は、たぶん、あなたが、しばらく忘れていた時間だ。
修行は、特別な場所に行くことではないのかもしれない。
毎日のどこかに、三秒の「比叡山」を、自分でつくる。
それで、たぶん、十分なのだ。
米の甘さを、思い出すために。


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