「自分はどこへ向かうのか」と問う夜が、増えていく

50代の心境

夜中に、天井を見ていた。

「自分は、どこへ向かうのか」

その問いに、20代の頃の自分なら、3分で答えられたはずだった。

出世する。家を建てる。家族を養う。

答えは、用意されていた。

30代の頃も、まだ答えはあった気がする。

部下を持つ。プロジェクトを回す。次のポジションを取りに行く。

迷いがなかったわけじゃない。

でも、迷う方向だけは、はっきりしていた。

50代になった、今。

迷う方向すら、わからない。


午前2時過ぎ。

エアコンの音だけが、部屋に響いている。

妻子と別居して、もう何年経っただろう。

最初の頃は、自由になったような気がした。

夜中まで仕事をしても、誰にも文句を言われない。

休日に出社しても、罪悪感がない。

それが、今は逆に重い。

家に帰っても、誰もいない。

「ただいま」と言う相手がいないことに、慣れたつもりでも、慣れきれない夜がある。

天井のシミを、ぼんやり見ている。

このシミ、いつからあったっけ、と思う。

そんなことを思っている自分が、ちょっとおかしくて、ちょっと寂しい。


少し前、若手社員から、雑談の流れで聞かれた。

「部長、定年後ってどうするんですか?」

たぶん、悪気はない。

40代の頃の自分なら、もっとうまく返せたと思う。

「まあ、嘱託で残るか、どこかで顧問でもやるかな」

そんな感じで、笑って流せたはずだ。

でも、その日は、言葉が出なかった。

数秒、止まった。

「いやあ、まだ全然考えてないんだよね」

なんとか、そう言って笑った。

若手は、それ以上、踏み込まずに去っていった。

ただ、自分の中には、しこりが残った。

「考えていない」のではなく、「考えても、答えが出ない」のだ。

それを、初めて、はっきり自覚した瞬間だった。


なぜ、50代になると、こうなるのか。

たぶん、答えの「型」が、なくなるからだと思う。

20代、30代は、用意された型があった。

昇進、結婚、家、子ども、住宅ローン。

良し悪しは別として、レールは敷かれていた。

そのレールに乗っているうちは、「自分はどこへ向かうのか」という問いは、ほとんど浮かばない。

向かう先が、見えているからだ。

50代になると、そのレールが、急に途切れる。

役職定年が見えてくる。

子どもは手を離れる。

親の介護が始まる。

体は、20代の頃の半分も動かない。

何かを「目指す」というより、何かを「終わらせていく」時間に入っていく。

そのときに初めて、「あれ、自分はこの先、どこに向かうんだろう」という問いが、夜中に立ち上がってくる。


人事の仕事を22年以上やってきて、面接で2,000人以上は会ったと思う。

その中で、50代の転職希望者と話す機会も、何度もあった。

みんな、口では立派なことを言う。

「経営に貢献したい」

「若手の育成を通じて、組織に還元したい」

でも、面接の最後の方で、ふっと素の顔が出る瞬間がある。

「正直、この先、自分が何をやりたいのか、よくわからなくなっていて」

そう言って、苦笑いする人が、何人もいた。

その表情を見るたびに、思っていた。

ああ、自分もいずれ、この顔をするんだろうな、と。

そして今、たぶん、自分も同じ顔をしている。


50歳になって、ChatGPTに触れた。

Claudeにも触れた。

最初は、仕事の効率化のつもりだった。

求人原稿を書かせる。評価制度の素案を作らせる。

確かに、便利だ。

人事の仕事の風景が、半分くらい、変わった気がする。

で、ある夜。

ふと、AIに聞いてみたことがある。

「50代の自分は、これからどこへ向かえばいいですか」

AIは、丁寧に、もっともらしい答えを返してきた。

「これまでの経験を活かして」

「セカンドキャリアの選択肢として」

「健康と家族との時間を大切に」

全部、正しい。

でも、何も、刺さらなかった。

画面を閉じて、思った。

ああ、これは、AIには答えられない問いなんだ、と。


AIは、過去のデータから、平均的に正しい答えを出す。

それは、すごい技術だ。

でも、「自分はどこへ向かうのか」という問いは、過去の平均には、ない。

それは、自分の中だけにある問いで、自分の中だけにしか、答えがない。

しかも、その答えは、たぶん、一生出ない。

出ない、というより、出さないまま歩くしかない、のかもしれない。

AIが進化すればするほど、皮肉な話だが、人間に残されるのは、こういう「答えの出ない問い」を抱える時間なんじゃないか。

仕事の答えは、AIが出してくれる。

人生の答えは、出してくれない。


最近、少しだけ、考え方が変わってきた。

「答えを出さなきゃいけない」と思っていた。

50代なんだから、人生の方向くらい、決まっていないとおかしい、と思っていた。

でも、本当は、違うのかもしれない。

20代で出した答えは、20代だから出せた。

30代の答えは、30代だから出せた。

50代の答えは、50代だから、簡単には出ない。

それは、能力が落ちたわけでも、意志が弱くなったわけでもない。

人生が、それだけ複雑になった、というだけだ。

積み重ねたものが、多すぎる。

捨てられないものが、多すぎる。

だから、答えが、すぐには出ない。

それは、悪いことじゃない、と思うようになった。


問いを抱えたまま、歩く。

答えを出さないまま、明日も会社に行く。

朝、コーヒーを淹れる。

部下と打ち合わせをする。

役員会で、頭を下げる。

夜、また天井を見る。

「自分は、どこへ向かうのか」

問う。

答えは出ない。

それでいい、と、最近は思えるようになってきた。


問いを持ち続けられるのは、生きているからだ。

死んだ人は、もう問わない。

迷っている、ということは、まだ何かを選ぼうとしている、ということだ。

20代の自分が3分で答えた問いに、50代の自分が一晩かけても答えられない。

それは、たぶん、進歩だ。

少なくとも、退化ではない。


天井のシミを、もう一度見る。

明日も、会社に行く。

向かう先は、まだ、わからない。

でも、わからないまま歩いている自分のことを、昔よりは、少しだけ、許せるようになった。

夜は、もう少し続く。

答えのない問いを、ポケットに入れたまま、明日の朝を迎える。

それで、いいのだと思う。

それが、50代の歩き方だ、と。

今夜は、そう思うことにしている。

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