「家庭」と「職場」のどちらにも居場所がない夜

50代の心境

家に帰っても、誰も「おかえり」とは言わない。

会社に行っても、自分の席が、なんだか少し離れて見える。

そういう夜が、最近、増えてきた。

22時すぎ。

会社を出て、最寄り駅から徒歩8分のマンションに帰る。

玄関の鍵を開けるとき、いつも、ほんの一瞬、ためらう。

開けた先に、誰もいないことを、自分がもう知っているからだ。

別居して数年経つ。

子どもはとっくに独立して、別の街にいる。

家のなかは、出た時のままになっている。

朝、自分でつけた電気が、自分のためだけに点いて待っている。

テレビをつけても、誰も会話に入ってこない。

スマホを見ても、家族からのメッセージはない。

仕事関係の通知ばかりが、夜中まで小さく光る。

「ただいま」を言わなくなったのは、いつからだったかな、と思う。

翌朝、会社に行く。

部長席はある。

椅子もある。

決裁書は今日も回ってくる。

なのに、ふと、自分の席が「ちょっとだけ遠い」と感じる瞬間がある。

若手の島から、笑い声が聞こえる。

自分のところまでは、その声は届かない。

届いても、自分が入っていい温度じゃない、とどこかで分かっている。

会議では、まだ意見を求められる。

でも、自分の意見が「決定」になることは、少しずつ減ってきた。

判断は、もう一段上の役員と、現場のキーマンの間で進んでいる。

自分は、間にいる。間にいるだけ、になりつつある。

家にも居場所がない。

会社にも、もう、ど真ん中の居場所はない。

それを、誰にも言えない。

言ったところで、「贅沢な悩みだ」と返ってくる気がする。

なぜ、こうなるんだろう。

ずっと考えてきた。

22年、人事をやって、2000人くらいの面接をしてきて、

たぶん、ひとつだけ言えることがある。

男は、「役割」のなかにしか、居場所を作ってこなかった。

父親、という役割。

夫、という役割。

部長、という役割。

稼ぎ手、という役割。

その役割の中で、必要とされている間は、居場所がある。

子が小さい頃は「お父さん」と呼ばれて意味があった。

部下を持っていた頃は「部長」と呼ばれて意味があった。

でも、子は離れ、妻とは会話が減り、職場でも自分の判断より若手の判断が優先されはじめる。

役割が、ひとつずつ、静かに外れていく。

外れたあとに、何が残るのかを、自分でも知らない。

現場で、似た人を何人も見てきた。

役職定年で、肩書きが「部長」から「担当部長」に変わった先輩がいた。

席は同じ場所のまま。

仕事も、ほぼ同じ。

でも、その人は、半年で別人みたいになった。

会議で前ほど発言しなくなった。

昼ご飯を、ひとりで早く食べて、自分のデスクに戻るようになった。

僕が「ちょっと相談いいですか」と声をかけると、ぱっと顔が明るくなる。

ああ、この人は、必要とされたい、んじゃなくて、

「いていい」と言ってほしいんだな、と思った。

別の人は、定年が見えてきた頃、急に若手の飲み会に顔を出すようになった。

最初はみんな喜んでいた。

でも、半年経つと、誘いがだんだん減っていった。

その人が悪いんじゃない。

「居場所」を、後ろの世代に求めると、たいてい、こうなる。

家庭でも、似たことが起きる。

ずっと仕事を優先してきた人ほど、家に「自分の場所」を作るのが下手だ。

リビングのソファに座っても、なんとなく落ち着かない。

妻と二人で晩ご飯を食べても、話す話題が、もう、あまりない。

子どもの話が共通言語だった頃が、いちばん楽だった、と気づく。

別居をして分かったのは、

「ひとりが寂しい」んじゃなくて、

「自分は必要とされていない」が寂しい、ということだった。

夜中、コンビニに行く。

レジの店員さんが「あたためますか」と聞いてくれる。

それが、その日、自分が交わした唯一の会話だったりする。

それでも、その一言で、少しだけ、息ができる。

「世間と接続している」と感じられる、最後の細い線みたいな感じだ。

そして、AIが、この状況に拍車をかけはじめている。

僕は50歳でChatGPTやClaudeを触りはじめた人間だから、

便利さも、こわさも、両方分かるつもりだ。

判断、調整、まとめ、文章化。

これまで「経験のある中堅・ベテラン」が握っていた仕事を、

AIは、けっこうな精度でこなしはじめている。

「あなたの判断が必要です」と言われる場面が、少しずつ減る。

「ChatGPTにまず聞いてみました」と若手が言う。

それが正しい時代の使い方だと、僕自身も思う。

でも、人事の現場にいると、よく見える。

役割のなかにしか居場所がなかった人ほど、

役割をAIに少し削られただけで、ぐらつく。

会社に行く意味が、よく分からなくなる。

朝、起きる理由が、薄くなる。

「自分は、何のためにここに座っているんだろう」が、

夕方、ふと、頭をよぎる。

じゃあ、どうしたらいい。

正直に言うと、決定的な答えはない。

「趣味を持とう」とか「友達を作ろう」とか、

そんな簡単な話なら、誰も苦労しない。

50代になって、急に新しいコミュニティに飛び込むのは、けっこう、しんどい。

ただ、ひとつだけ、最近思っていることがある。

居場所は、もう、「与えられるもの」じゃない、ということだ。

会社が用意してくれる席。

家族が空けてくれる椅子。

肩書きが連れてきてくれる輪。

そういう「向こうから来る居場所」は、50代から先、確実に減っていく。

それは、自分が悪いんじゃない。フェーズが、そういう時期に入っただけだ。

だから、こっちから、灯しにいくしかない。

後輩が「ちょっと相談いいですか」と言ってきた時、

5分でも、ちゃんと顔を上げて聞く。

若手が出した意見に、自分の経験を少しだけ、押し付けずに足す。

家族と連絡が取れる関係なら、用がなくても、季節の変わり目に一行だけLINEを送ってみる。

別居中の妻でも、子どもでも、

返信が来なくてもいいから、

「あなたのこと、覚えてますよ」を、こっちから、小さく灯す。

居場所っていうのは、

たぶん、「自分が誰かのために灯した小さな明かり」のことだ。

その明かりの中に、ちょっとだけ、自分も、入れてもらえる。

今夜も、家に帰る。

「ただいま」を言う相手はいない。

会社の席は、明日も、少し遠くに見えるかもしれない。

でも、もう、それでパニックにはならなくなった。

居場所がないんじゃなくて、

「与えられる居場所」が終わって、

「自分で灯す居場所」のフェーズに入っただけだ、と、

夜中、自分にそう言い聞かせる。

コンビニの店員さんに「あたためますか」と聞かれて、

「お願いします」と返す。

その一言が、今日の自分を、ぎりぎり、世間につなぎ止めてくれている。

それで、いい。

今夜は、それで、いい。

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