継いだ翌日、社長室の椅子に座った。
その椅子は、父のままの匂いがした。
私の椅子になるまで、10年かかった。
「もう社長なんだから、自分で決めなさい」
継いで半年も経たないうちに、何度この言葉を周りから言われただろう。
でも、決められなかった。
正確に言うと、決めても、自分の決断という気がしなかった。
頭のどこかに、いつも父の声があった。
「父ならこう言うだろうな」
「父ならこの取引先は切らないだろうな」
「父ならこの値段では絶対に動かないだろうな」
判断のたびに、心の中で誰かに相談していた。
それは、もういない人だった。
中小企業の後継者を、20年以上、現場でたくさん見てきた。
私自身も、家業を継いだ二代目だ。
ホテルや冠婚葬祭の人事を本業にしながら、父の代から続く小さな工房を継いで、もう10年を超えた。
その間に、同じ立場の人にもたくさん会った。
ご縁のあった顧問先、研修先、地元の経営者の集まり、商工会の集まり。
二代目、三代目、娘婿、親族外承継。
形はそれぞれ違う。
ただ、皆がほとんど同じことを言う。
「継いでから3年は、毎日が借り物だった」
借り物、という表現は、すごく的を射ている。
会社の建物も、取引先も、社員も、銀行との関係も、全部、前経営者が積み上げたものだ。
継いだ瞬間は、何ひとつ自分で作ったものがない。
社長室の机も、椅子も、応接室のソファも、玄関の暖簾も、全部、誰かが選んだものだ。
その上に座って、号令をかける。
「これからは、私の方針でいきます」
そう言いながら、内心はいつも揺れている。
本当にこれでいいのか。
社員はついてきてくれるのか。
父の代からの番頭は、内心でどう思っているのか。
私の場合、最初の3年で、社員が一人辞めた。
ベテランの職人だった。
直接の理由は、私の出した小さな新しい方針への反発。
でも本当の理由は、「あんたじゃ無理だ」だったと思う。
辞表を受け取ったとき、私は何も言えなかった。
引き止める言葉も、責める言葉も、出てこなかった。
ただ、自分の手の中で紙が震えているのが分かった。
その夜、家に帰って、妻にも言えなかった。
父にも、相談できなかった。
そして、その晩から、椅子の意味が少しだけ変わった。
「ああ、この椅子に座るというのは、誰かが辞めるかもしれない決断を、毎日し続けるということなんだ」
頭ではなく、腹で、ようやく分かった。
5年目あたりで、景色が変わる瞬間がある。
これは、後継者の人と話していると、よく出てくる話だ。
たとえば、ある後継者は、こう言った。
「5年目に、初めて自分のアイデアで、新規取引先を取れたんです」
「そのとき、社員が私を見る目が変わったのが分かりました」
社員は、二代目をよく見ている。
すごくよく見ている。
口には出さないけれど、見ている。
「この人は、本気で会社のことを考えているのか」
「前社長の遺産で食ってるだけなのか」
「自分の頭で、判断できるのか」
5年くらい経って、自分発の決断がいくつか積み重なると、ふっと社員の目線が変わる瞬間がある。
そのときから、ようやく「自分の会社」と呼ばれてくる。
10年目に、もう一段階、何かが変わる。
これは、もっと言葉にしにくい。
10年経つと、自分が下した判断の結果が、結果として返ってくる。
5年前に採用した若手が、戦力になっているか、辞めているか。
3年前に切った取引先のおかげで助かったか、痛かったか。
7年前に始めた新規事業が、芽が出たか、撤退したか。
良いも悪いも、全部、自分の判断のせいだと、はっきり分かる。
誰のせいにもできない。
父のせいにも、時代のせいにも、社員のせいにもできない。
その重さに慣れてくる。
慣れてくるというより、それが当たり前になる。
孤独が、もう「孤独」と感じなくなる。
そのとき初めて、経営は、自分のものになる。
最近、いろんな後継者から、AIの話を聞かれる。
私自身、人事の仕事でも、家業のほうでも、ChatGPTもClaudeも毎日使う。
確かに、便利になった。
決算書の読み解きも、業界動向の整理も、社員面談の振り返りも、AIに手伝ってもらえば、ぐっと速く深く考えられる。
「これからの後継者は、AIがあるから判断が楽になりますよね」
そう聞かれることがある。
私の答えは、半分Yes、半分No、だ。
AIは、情報を整理してくれる。
選択肢を提示してくれる。
過去の事例を、いくらでも引いてくれる。
「同業他社で社員50人規模の事業承継、よくある失敗パターンを教えて」
そう聞けば、それなりの答えが返ってくる。
意思決定のスピードは、確かに上がる。
ただ、「自分の決断として引き受ける」時間そのものは、AIには短縮できない。
たとえば、社員を一人辞めさせる決断。
新規事業に1億円を投じる決断。
父の代からの取引先を切る決断。
判断材料を10倍速く揃えても、その判断を「自分のものとして背負う覚悟」は、誰かに代わってもらえない。
椅子の匂いが、自分の匂いになるまでの時間は、AIをどれだけ使っても、短くならない。
これは、たぶんずっと変わらない。
短期成果が求められる時代だ。
特に銀行や取引先は、継いで2年もすれば「で、新社長としての成果は?」と聞いてくる。
SNSを見れば、若くして成功した二代目の話が流れてくる。
3年で売上倍、5年で上場、10年で海外展開。
焦らないほうがおかしい。
でも、現場でたくさん見てきた感覚としては、急いだ後継者ほど、5年目あたりで一度大きく折れる。
折れて、辞める人もいる。
逆に、最初の3年で派手な動きをしなかった人ほど、10年経つと、しっかり経営者の顔になっている。
これは、保証はできない。
ただ、私が見てきた限り、明らかに、そういう傾向はある。
いま継いだばかりで、毎晩眠れないあなたへ。
3年は、誰がやっても借り物の経営です。
5年目に、初めて自分の決断が結果として返ってきます。
10年経って、ようやく椅子の匂いが自分のものになります。
それまでは、揺れて当然です。
決断のたびに、亡くなった父や、引退した先代の顔が浮かんで当然です。
社員の視線が痛くて当然です。
孤独で当然です。
ただ、その10年を、ちゃんと10年として歩いた人だけが、その先の20年、30年を、自分の足で歩けるようになる。
ショートカットはない。
AIでも、短くできない。
でも逆に言えば、いま苦しいのは、ちゃんと歩いているからだ。
焦らなくていい。
10年単位で、考えていい。
その10年の終わりに、ふと座った椅子から、自分の匂いがする日が、必ず来る。
その日まで、椅子を温め続けてほしい。


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