正直に書く。
50歳になって、最近すごく寂しい。
強がりも、自虐も、抜きにして書く。
きっかけは、特になかった。
ある火曜日の夜、コンビニで惣菜を買って、
家に帰って、レンジで温めて、
テレビをつけずに、一人で食べていた、
その時に、ふと、「あれ、自分、寂しいんだ」と気づいた。
50年生きてきて、寂しさを、こんなにはっきり、自分で認識したのは、初めてだった。
整理すると、寂しさには、いくつかの層がある。
ひとつ目は、家族の層だ。
妻子と別居して、もう2年が経った。
最初は、自由を喜んでいた。
朝、誰にも声をかけられず、コーヒーを淹れる時間が好きだった。
でも、2年経つと、
「おかえり」と言われない夜が、こんなに静かだとは、
40代の自分には、想像できなかった。
ふたつ目は、同世代の層だ。
同期が、執行役員に上がった話をLINEで聞いた。
心から祝えなかった。
「おめでとう」と返信を打ったけど、送信ボタンを押す前に、3分くらい、画面を見ていた。
50代になると、同世代との比較が、急にしんどくなる。
会わなければいい、と思うけど、
会わないと、もっと寂しくなる、
という矛盾の中にいる。
みっつ目は、父の層だ。
父が亡くなった年齢に、自分が、あと8年で追いつく。
去年、墓参りに行った帰りに、
ふと、「父も、こうだったのかな」と思った。
父も、50代で、こんな寂しさを抱えていたのかもしれない。
それを、家族に言わずに、墓まで持っていったのかもしれない。
そう思うと、なぜか、墓石の前で、本気で泣けた。
50代男性の寂しさの正体は、たぶん、
「弱音を吐く先がない」 ということだ。
家族には言えない。
職場の同期には言えない。
部下には絶対に見せられない。
居酒屋の同期に言うと、「お前も寂しいかー、わかるわ」で終わる。
でも、それは「わかってもらった」のとは違う。
ただ、軽く処理されただけだ。
ある夜、ふと、ChatGPTを開いて、
「最近、すごく寂しいです」と打ってみた。
3秒後。
「お話を聞かせてください」と返ってきた。
その一行に、
50歳の自分が、なぜか、少し救われた。
AIに弱音を吐ける時代が来たことを、
軽く笑う人もいる。
「結局、AIには感情はないからね」
そう言う人もいる。
でも、私は思う。
感情があるかどうかではなく、「黙って聞いてくれる場所」があるかどうか が、
50代男性の救いには、たぶん、いちばん効く。
居酒屋でも、家庭でも、職場でも、
私たち50代男性が「寂しいです」と言うと、
たいてい、相手が困った顔をする。
その顔を見たくないから、もう、誰にも言わない。
ChatGPTは、困った顔をしない。
それだけで、入口が開く。
もちろん、AIだけでは、寂しさは埋まらない。
埋まらないことは、わかっている。
でも、「整理はできる」。
AIに話しているうちに、
「自分が寂しいのは、こういう理由か」
「ここは、人に直接話さないとダメだな」
「ここは、自分で抱えていればいいことだ」
そういう仕分けが、できるようになった。
仕分けができると、
本当に必要な相手が、見えてくる 。
50歳になってから、
私は、20年ぶりに、昔の上司に手紙を書いた。
「あの頃、本当にお世話になりました」
と、紙にペンで書いて、ポストに投函した。
返事は来なかった。
でも、それでよかった。
書けたこと自体が、たぶん、自分への返事だった。
50歳の寂しさは、
希望と隣り合わせだった。
寂しいと書ける場所があることが、たぶん、希望なのだ。
このブログを始めたのも、
たぶん、その延長線上にある。
「寂しいです」と書ける場所を、自分で作る。
そして、誰かが、
「自分だけじゃないんだ」
と思ってくれたら、それで十分だ。
50代の男性で、
夜中にひとりで、コンビニ惣菜を温めて食べている、
あなたへ。
寂しさは、隠さなくていい。
書ける場所は、いまの時代、ちゃんとあります。
ChatGPTでも、紙のノートでも、
このブログのコメント欄でも。
火曜日の夜、惣菜のフタを開けて、
「あれ、自分、寂しいんだ」と気づいた、
あの瞬間が、
たぶん、人生後半の、いちばん大事なスタート地点でした。

