50代になって、
「もう若くない」と、口にすることが増えた。
最初は、自虐だった。
気づいたら、
事実として、淡々と言えるようになっていた。
その分岐点に、
50代の、本当の自由が、たぶん、ある。
40代後半までの「もう若くない」は、
たいてい、自虐だった。
居酒屋で、後輩に、
「いやー、もう若くないわー」と笑いながら言う。
後輩が、
「そんなことないですよ、まだまだ若いですよ」
と返してくれる。
その流れに、
ちょっと、満足する。
そういう、
**「若さを諦めていない」自分への、
毎度の小さな確認儀式** だった。
50歳を超えて、
ある朝、
このやり取りが、
ふと、
面倒くさく感じた 。
その朝の、ある瞬間だった。
会議室で、若手が、
スマホで、何か新しいアプリの話をしていた。
私は、聞いていなかった。
聞こえていたけど、
「ああ、たぶん、今の若い人のもの」
と、
普通に、流せた。
その瞬間、自分でも気づいた。
いま、自分は、まったく自虐していない 。
「若い人が新しいアプリの話をしている」
「自分はそれを知らない」
「でも、それでいい」
この三段論法が、
自虐の経由地を、まったく、通らなかった 。
これが、
「もう若くない」を、
事実として言える日の、最初のサインだった。
整理すると、
50代になって、
「もう若くない」が事実として腑に落ちるのは、
3つの段階を踏む。
ひとつ目は、体の変化を、認める段階だ。
老眼鏡。白髪。階段を上る時の息切れ。
40代までは、見ないふりをしていた。
50代になると、
「ああ、これは体だな」 と、
淡々と、認められるようになる。
最初に、私は、老眼鏡を買った日のことを、まだ覚えている。
メガネ屋で、
「もう少し度数を上げますか?」と聞かれて、
ふと、
「これからずっと、老眼と付き合うんだ」と、
体で、わかった。
その日、家に帰って、
老眼鏡をかけて、
久しぶりに、新聞を読んだ。
文字が、はっきり見えた。
「見えない」を、認めた瞬間に、見えるようになる。
これが、
50代の、最初の救いだった。
ふたつ目は、心の変化を、認める段階だ。
体より、こちらが、難しい。
50代になると、
「もう新しいことに、挑戦する気が起きない日」が、増える。
40代までは、それを、
「自分が怠惰になった」と責めていた。
でも、50代の中盤で、
ふと、気づいた。
それは、怠惰ではなく、整理整頓だった 。
50年生きてきて、
挑戦すべきことと、しなくていいことが、
少しずつ、わかってきた。
新しいゲームに手を出さない。
新しいSNSにも登録しない。
その代わり、
ChatGPTには、本気で取り組む 。
これは、
「やるべきことに、絞れるようになった」 という、成熟だ。
みっつ目は、社会の変化を、受け入れる段階だ。
若手の価値観の変化。
時代の言葉づかいの変化。
ニュースで聞く社会問題の変化。
40代までは、
「最近の若い者は」と、口にしていた。
50代の中盤で、ふと、
「自分が変わらないだけだ」と、
腹に落ちる日が来る。
そこから、
「自分が変わらないのは、もう許そう」 という、
不思議な自由が始まる。
「最近の若い人がアプリの話をしている」
「自分はそれを使わない」
「でも、それを批判もしない」
この三段論法が、
50代の、ひとつの完成形だ。
ここまで読んで、
「諦め」だと感じる人もいるかもしれない。
私の感覚では、これは諦めではなく、
「自分の輪郭を、認める」 という作業だ。
40代までは、
自分の輪郭を、外側に拡張しようとしていた。
50代になると、
自分の輪郭を、
内側に、深める ようになる。
そして、AI時代になって、これは、もっと、強みになる。
AIは、
「拡張」が得意だ。
知識の拡張、業務の拡張、可能性の拡張。
すべて、3秒で、外側に広げられる。
でも、AIは、
「自分の輪郭を、内側に深める」 ことは、
できない。
これは、
50年生きてきた人間にしか、できない。
50代のあなたへ。
「もう若くない」を、
自虐ではなく、
事実として、淡々と言える日 が、
たぶん、近いです。
その日が来たら、
寂しがらないでください。
それは、
人生後半の、本当のスタート地点 です。
40代までは、
「もう若くない」と言うたびに、
少しだけ、自分が削られていました。
50代の中盤からは、
「もう若くない」と言うたびに、
少しだけ、自分が、軽くなります。
その軽さに、
私は、いま、
50年で初めて、
自由に近い感覚 を、感じています。
老眼鏡をかけて、
新聞の文字が、はっきり見えるようになった、
あの夜のように。

