席に着いた、最初の3秒。
彼女は、私の目を見なかった。
それが、いちばん丁寧な接客だった、と気づくのに、私は10年かかった。
出張先で、夜にちょっと一杯、という店に通うようになって、もう長い。
最初の頃は、なんとなく女の子の顔ばかり見ていた。
挨拶されたら、目を見て返すのが礼儀だと思っていた。
接遇マナーの講師もやっている身として、「アイコンタクトは接客の基本です」と、自分でも何度も研修で話してきた。
だから当然、相手も自分の目を見てくるものだと思い込んでいた。
ところが、できる人ほど、そうしない。
席に座った瞬間、彼女たちはまず、私の手元を見る。
おしぼりをそっと差し出す。
グラスの位置を直す。
メニューに目を落とす。
私の顔を、見ない。
最初は、興味がないのかな、と思った。
商売っ気がないのかな、とすら思った。
違った。
あれは、引いていたのだ。
考えてみてほしい。
仕事で疲れて、知らない店に入って、初対面の相手にいきなり真正面から目を覗き込まれたら、人はどう感じるか。
評価されている、と感じる。
スーツが安いか、靴が汚れていないか、髪がどうか、酔っているか。
全部、見られている気がしてしまう。
緊張する。
肩に力が入る。
「楽になりに来た」はずなのに、逆に疲れる。
できるホステスは、それを知っている。
だから、最初の3秒、あえて目を合わせない。
「ここはあなたを評価する場所じゃありませんよ」
「あなたの肩書きにも服装にも、興味はありませんよ」
「どうぞ、息を吐いてください」
視線を外す、という行為で、彼女たちはそれを伝えている。
これは、無関心とは真逆の、極めて高度な気遣いだ。
3秒、目を合わせない。
そのあいだに客は、椅子の硬さを確かめ、上着を脱ぎ、コートをずらし、ようやく「ここに座っていいのだ」と体が許可を出す。
それを待って、ようやく彼女は、目を合わせる。
絶妙に、優しく。
私は、22年、人事をやってきた。
面接した人数は、2,000人を超える。
そのあいだ、私はずっと、ドアが開いた瞬間に相手を見つめる癖を持っていた。
ガチャ、と音がして、頭が一礼の角度で下がる。
その瞬間、私は相手の表情を読みに行く。
緊張しているか、堂々としているか、靴は揃っているか、視線は泳いでいないか。
面接官として、当然の習慣だと思っていた。
でも、最近になって、ふと思った。
これ、相手にとっては、たまったものじゃないんじゃないか。
ドアを開けた瞬間、見知らぬ50代のおじさんに、上から下までスキャンされる。
しかも、無言で。
そりゃ、緊張する。
本来出せた力の、半分も出せないだろう。
私は、自分の「観察眼」に自信があった。
最初の5秒で、だいたいわかる、なんて、講演でも話してきた。
でも、その5秒は、相手の本当の姿を見ていたのか。
私の視線によって、固まった姿を見ていただけじゃないのか。
ホステスさんの3秒を思い出して、ぞっとした。
それからは、面接の最初の3秒を、変えた。
ドアが開いても、すぐに顔を上げない。
机の資料を、ゆっくり整える。
ペンの位置を直す。
そうして、相手が椅子の前に立ち、軽く礼をして、椅子に手をかける、その動作が終わったあたりで、ようやく顔を上げる。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
そこで、初めて目を合わせる。
たった、それだけ。
たった、それだけのことで、相手の声の張りが、明らかに変わった。
最初の自己紹介の言葉が、上ずらなくなった。
笑顔が、作り笑顔じゃなくなった。
3秒、見ない。
ただ、それだけ。
それは技術ですらなく、配慮だった。
AIの話を、少しだけ。
最近、AI面接やAI接客のデモを、いくつも見せてもらう機会がある。
カメラの中のアバターは、常にこちらを見ている。
瞬きもする。
ニコッと笑う。
技術として、すごい。
でも、見ていて少し、息が詰まる。
なぜなら、彼女たち(彼ら)は、絶対に目を逸らさないからだ。
ずっと、こちらを見ている。
評価しているわけじゃない、とわかっていても、人間の脳は、視線を「向けられ続けること」自体に疲れる。
「見ない3秒」ができるAIを、まだ私は見たことがない。
おそらく、設計者の頭の中で、「目を逸らす=失礼/興味がない」という旧来の接客観が、まだ強いのだろう。
でも、本当に上等な接客は、引き算でできている。
見ない3秒、声をかけない10秒、用事がないときに通り過ぎる距離感。
そういう「やらないこと」の集合体だ。
AIが「見ない」を覚えるまで、しばらく時間がかかる。
だとしたら、この数年のあいだ、人間の「あえて見ない配慮」は、希少価値になる。
地方の老舗ホテルで、ご年配のお客様に「自分のペースで歩かせてくれる」フロントマン。
朝の朝礼で、まだ目が覚めきっていない新人に、最初の3秒、声をかけずに自分のお茶を入れる先輩。
1on1で、若手が言葉を探している沈黙を、5秒、待てる管理職。
これらは全部、同じ系譜の話だ。
数値化できない。
研修マニュアルにも書きにくい。
でも、これがある会社は、辞める人が少ない。
経営者として、断言できる。
接遇マナーで、私たちは長いあいだ、「アイコンタクトをしっかり」と教えられてきた。
それ自体は、間違っていない。
でも、それはあくまで「土俵に上がる」レベルの話だ。
その上に、「あえて目を外す3秒」がある。
新人ホステスは、目を合わせる。
ベテランは、合わせない3秒を持っている。
新人面接官は、相手をスキャンする。
ベテランは、相手が呼吸を整える時間を待つ。
新人マネージャーは、部下の話を遮る。
ベテランは、部下の目が泳いでいるあいだ、自分のコーヒーを飲んでいる。
差は、たぶん、3秒の中にある。
最後に。
明日、誰かと向き合うとき。
部下でも、面接の応募者でも、商談の相手でも、家族でもいい。
最初の3秒、相手の目を「見ない」ことから始めてみてほしい。
ペン立てを直してもいい。
書類の角を揃えてもいい。
窓の外の光を眺めてもいい。
そして3秒経ったら、ふっと顔を上げて、「お疲れさまです」と言う。
たぶん、相手の肩から、ひとつ力が抜ける。
それが、こちらに伝わってくる。
接客の本質も、人事の本質も、案外そこにある気がしている。
50を過ぎて、ようやく、それが少し、わかってきた。
遅すぎた、とは思わない。
気づけた、ことのほうが、たぶん大きい。
明日の朝の、最初の3秒。
そこから、変えてみませんか。


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