「テレビ、うるさい」
妻に、そう言われた夜。
私は、自分の老いを、初めて、耳から、知った。
白髪は、もう、ずいぶん前から鏡の中にいた。
老眼鏡も、二年前に作った。
それらは、見える老いだった。
見えるから、笑い飛ばせた。
「もう若くないなあ」と冗談にできた。
冗談にできるうちは、まだ余裕がある。
耳の変化は、違った。
しばらく、自分でも気づかなかった。
最初の違和感は、会議室だった。
うちの会社は、地方の老舗で、社員の年齢層が幅広い。
二十代の若手も、七十代の現役顧問もいる。
その会議で、入社三年目の女性社員が、何かを言った。
私の正面で、ちゃんと私の方を向いて、言った。
なのに、半分くらいしか、聞こえなかった。
「もう一度、いいかな」
私は、そう言った。
彼女は、丁寧に言い直してくれた。
二度目は、聞こえた。
それで、会議は普通に進んだ。
普通に進んだのに、私はその夜、それを覚えていた。
覚えていた、ということが、答えだった。
人事を二十二年やっていると、人の表情の小さな揺れに、敏感になる。
部下が言い直してくれるとき、ほんの一瞬、目が泳ぐ。
「あ、この部長、聞き取れなかったんだ」
その判断が、一瞬で済む顔。
その顔を、私は何度か、見るようになっていた。
自分が、面接で何千人と見てきた表情。
それを、こちら側から見られる立場になっていた。
耳鼻科には、まだ行っていない。
行けばいい、と頭ではわかっている。
でも、なぜか、行けなかった。
たぶん、これは、確定したくない、という気持ちだった。
数値で出てしまったら、もう逃げられない。
「右耳、何デシベル、軽度の難聴」
そう書かれた紙を、白衣の医師から受け取ってしまったら、
私は、それを、認めなければいけなくなる。
見える老いと、聞こえなくなる老いは、覚悟の重さが違う。
見える老いは、自分が引き受ける。
聞こえなくなる老いは、相手にも引き受けてもらわなければならない。
そこが、しんどかった。
妻と別居して、もう二年になる。
理由は、ひとつではない。
ひとつではないけれど、振り返れば、私が彼女の声を、最後の数年、ちゃんと聞いていなかったことは、確かだった。
聞こえていなかったのか。
聞こうとしていなかったのか。
その境目は、自分でも、よくわからない。
「テレビ、うるさい」と言われた夜は、別居の少し前だった。
私は、何も言い返さず、リモコンで音量を二つ下げた。
彼女は、もう何も言わなかった。
あの沈黙の意味を、私は、今になって、考えている。
五十歳でAIに触れた。
これは、本当に、よかったと思っている。
仕事の段取りも、文章の整理も、ずいぶん助けられている。
最近、スマートスピーカーで、朝のニュースを聞くようになった。
少し速度を落として、読み上げてもらう。
落とした速度で、ちょうどよく、すっと入ってくる。
正直、楽だった。
楽だ、と思った瞬間、少し、寂しかった。
機械の声は、聞き取りやすい。
機械の声は、私の聞こえに、合わせてくれる。
機械の声は、私に、言い直させない。
だから、ありがたい。
ありがたいのに、これに慣れてしまうと、人の声を聞く筋力が、もっと落ちるような気がする。
人の声は、合わせてくれない。
人の声には、感情があり、抑揚があり、息継ぎがあり、思惑がある。
私は、人事の現場で、その「合わせてくれなさ」の中にこそ、人の本音があると学んできた。
機械の声に頼ることは、たぶん、悪いことではない。
でも、それだけになってはいけない、という直感がある。
だから、聞こえなかったときは、ちゃんと「もう一度、いいかな」と言うことにした。
恥ずかしさは、ある。
部長が、若手に、二度言わせる。
その小さな逆転を、引き受ける。
引き受けてみると、不思議なことに、若手は嫌な顔をしなかった。
「すみません、声が小さかったですね」
そう、こちらに気を遣わせてしまうことの方が、私には申し訳なかった。
でも、彼らは、それで、私を侮ったりはしなかった。
侮ったりしないんだな、と、思った。
侮られると思っていたのは、私だけだった。
五十代になって、わかってきたことがある。
老いを隠している人は、隠していることが、相手にバレている。
老いを認めている人は、認めていることに、相手が安心している。
人事を長くやって、何百人もの五十代、六十代を見てきた。
衰えと戦い続けて疲弊していく人と、
衰えを淡々と受け入れて、なお現役で輝き続ける人。
その差は、能力ではなかった。
「認めるタイミングの早さ」だった。
早く認めた人ほど、次の手が早い。
補聴器も、老眼鏡も、AIも、運動も、人間関係の整理も、早い。
私は、まだ、補聴器の前にいる。
耳鼻科に行く決心も、ついていない。
でも、「もう一度、いいかな」と言えるようになった。
これは、私にとって、小さな大きな一歩だった。
妻のことは、まだ、わからない。
戻れるのか、戻れないのか。
でも、もし、もう一度、彼女と同じテレビを見る日が来るなら、
今度は、音量を上げない。
音量は上げずに、字幕を出すか、補聴器をつけるか、ヘッドホンを使う。
自分の聞こえないを、相手の「うるさい」に、変換しない。
それは、たぶん、夫婦の話に限らない、五十代の作法だ。
老いを認めることは、敗北ではない。
老いを認めることは、自分との、新しい付き合い方を始めることだ。
耳が、最初に教えてくれた。
それは、思っていたより、優しい知らせだった。
まだ、聞こえる。
少し聞こえにくくなっただけで、まだ、聞こえる。
聞こえるうちに、聞いておきたい声が、私には、いくつかある。
その声を、ちゃんと聞くために、
私は、今日も、「もう一度、いいかな」と、言える人でいたい。


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