「不便さ」が、人を育てる時代がもう一度来る

禅と精神性

比叡山で、スマホを預けた。

手のなかが、急に軽くなった。

その軽さが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。

受付の木箱に、自分の携帯を入れる。

蓋が閉まる。

ただそれだけのことなのに、世界と自分のあいだに、薄い壁が一枚できた気がした。

居士林という、修行者のための場所だった。

三日間、無言で過ごす。

坐禅、写経、作務。

朝は四時に起きる。

外はまだ真っ暗で、空気が刃物みたいに冷たかった。


最初の半日が、いちばんつらかった。

つらい、というより、手持ち無沙汰だった。

何かを待つあいだ、人はポケットに手を伸ばす。

そこに、何もない。

エレベーターを待つ数十秒。

ご飯が出てくるまでの数分。

そのわずかな空白を、私はいつもスマホで埋めていた。

埋めるものがないと、時間が急に、生身でそこにあった。

長い。

びっくりするほど、長い。

私は五十代で、人事を二十二年やってきた。

面接した人の数は、二千人を超えた。

人を見るのは慣れているつもりだった。

でも、自分のことは、よく見えていなかった。

スマホを手放して気づいたのは、自分がどれだけ「待てない」人間になっていたか、ということだった。


無言の食事は、もっと不思議だった。

音がない。

箸が器に当たる、小さな音だけがする。

会話がないと、料理の味が、やけにはっきりわかる。

漬物の塩気。

味噌汁の温度。

ご飯を噛む、自分のあごの動き。

ふだん、私は何を食べているのかも、よくわかっていなかったのだと思う。

スマホを見ながら、誰かと喋りながら、口に運んでいた。

味は、情報の隙間にこぼれ落ちていた。

不便だと、目の前のものが、ちゃんと目の前にある。

便利は、目の前のものを、薄くする。

そういうことかもしれない、と思った。


坐禅では、足が痺れた。

正座にも結跏趺坐にも慣れていない。

十分で、膝から下の感覚がなくなる。

痛い。

逃げ場がない。

でも、その痛みに耐えているうちに、ふと、自分の呼吸が聞こえてきた。

吸って、吐いて。

当たり前のことだ。

生まれてからずっとやっている。

なのに、その音を、何十年ぶりかに「聞いた」気がした。

考える時間、というものが、そこにあった。

何かを調べる時間ではない。

答えを探す時間でもない。

ただ、自分の頭のなかを、ぼんやり眺めている時間。

不便さは、その時間を、私に返してくれた。


山を下りて、スマホを受け取った。

通知が、ずらりと並んでいた。

それを見た瞬間、戻ってきた感覚が、すっと引いていくのがわかった。

便利な日常が、また私を飲み込んだ。

落差が、大きかった。

そして思った。

私はこの三日間、不便だったから、いろんなことに気づけたのだ、と。

便利は、答えを早くくれる。

不便は、考える時間をくれる。

そのことを、足の痺れと、無言の食事が、教えてくれた。


ここから、仕事の話をしたい。

私はいま、五十代になってからChatGPTやClaudeを使っている。

正直、便利だ。

文章の下書き、データの整理、調べもの。

以前なら半日かかったことが、十分で終わる。

AIは、不便をなくす道具だ。

それ自体は、ありがたい。

ただ、職場を見ていて、少し気になることがある。

若い社員が、わからないことをすぐAIに聞く。

答えが、すぐ返ってくる。

それを、そのまま使う。

速い。

きれいだ。

文句のつけようがない。

でも、そこに「考えていた時間」が、ない。

迷ったり、間違えたり、調べ直したりする時間が、まるごと消えている。


私が若い頃、上司は答えをくれなかった。

「自分で考えろ」と、突き放された。

正直、当時は不便でしかなかった。

非効率だと思った。

でも、いま振り返ると、あの「考えさせられた時間」が、私を育てた。

答えそのものより、答えにたどり着くまでの、回り道。

その回り道で、私は人の見方を覚え、判断のクセを知った。

不便だったから、力がついた。

便利すぎたら、たぶん、つかなかった。

AIは、その回り道を、消す道具でもある。

なくしすぎると、育つ機会も、一緒に消える。

これは、AIが悪いという話ではない。

道具に罪はない。

問題は、私たち管理職が、便利さに甘えて、考える余白を社員から奪っていないか、ということだ。


部下に何か聞かれたとき。

すぐ答えを言うのは、楽だ。

その場が、早く片づく。

でも、それは「便利」を選んでいるだけかもしれない。

「あなたはどう思う?」

そう聞き返して、相手が考える数十秒を、こちらが黙って待つ。

これは、不便だ。

時間がかかる。

じれったい。

でも、その数十秒が、坐禅で私の呼吸が聞こえてきたときの、あの時間に似ている。

人は、自分で考えた時間のぶんだけ、育つ。

それは効率では測れない。

そして、効率で測れないものほど、いちばん大事なことが多い。


便利を、全部捨てろとは言わない。

私だってAIを使うし、スマホがない生活には、もう戻れない。

そういう綺麗事を言うつもりはない。

ただ、便利さの濃度を、自分で少しだけ調整することはできる。

比叡山の三日間が特別だったのは、不便を「選んだ」からだ。

選んだ不便は、修行になる。

押しつけられた不便は、ただの苦痛だ。

その違いは、大きい。


だから、明日、ひとつだけ提案したい。

大げさなことでなくていい。

たとえば、移動の十五分、スマホを見ないでみる。

部下の質問に、すぐ答えず、一度「どう思う?」と返してみる。

会議のはじめの三分、誰も発言しない沈黙を、あえて壊さずに置いてみる。

どれも、不便だ。

落ち着かないと思う。

でも、その不便のなかに、忘れていた感覚が、たぶん少しだけ戻ってくる。

自分の呼吸。

考える時間。

目の前にいる人の、気配。

便利な時代は、これからも進む。

止められない。

だからこそ、あえて不便を選べる人が、これから人を育てられるのだと思う。

手のなかが軽くなった、あの落ち着かなさ。

あれは、何かが始まる前の、合図だったのかもしれない。

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