「うちの会社、続ける意味あるのかな」と思った夜

後継者・経営

深夜、誰もいないリビング。

「この会社、続ける意味、あるのかな」

その問いは、誰にも怒っていない声で、静かに、私の中に浮かんできた。

何かあったわけじゃない。

その日、特別に嫌なことがあったわけでもない。

決算は、ぎりぎりだけど黒字だった。

社員も、誰も辞めていない。

取引先と揉めたわけでもない。

ただ、湯のみのお茶が冷めていくのを見ていたら、ふっと、そう思った。

それだけだった。


家業を継いで、数年が経っていた。

父が突然死んで、半ば押し付けられるように、工房に戻った。

最初の二、三年は、無我夢中で覚えがない。

職人さんに頭を下げて、銀行に頭を下げて、税理士に頭を下げて、得意先に頭を下げて。

ひたすら頭を下げて回って、夜は数字を見て、朝は現場に立つ。

「考える」という贅沢は、そこにはなかった。

走るしかなかった。

走っているうちは、続ける意味なんて、考えない。

止まる暇がないから。


問題は、少し落ち着いてから来た。

数字がなんとなく読めるようになって、職人さんとの距離も縮まって、得意先も「あ、息子さんね」と覚えてくれて。

要するに、「回る」ようになってきた頃。

回るようになると、人間って、ふと、頭をもたげる。

「これ、何のためにやってるんだろう」

それは、しんどいから出る問いじゃない。

しんどい時は、しんどさで頭がいっぱいで、意味なんて考えない。

意味を問えるのは、少し余裕が出てきた人間の、贅沢な疲労なのかもしれない。

そう、今ならわかる。

でもあの夜は、わからなかった。


「続ける意味あるのかな」

そう思った時、いくつか顔が浮かんだ。

亡くなった父の、職人時代の写真。

うちで30年以上、黙々と手を動かしてくれている、年上の職人さん。

去年、新卒で入ってくれた、20代の子。

その子が、入社式の日、緊張で固まりながら言った。

「ここで、ちゃんと、ものを作れる人になりたいです」

その顔も、浮かんだ。

浮かんだけれど、その夜は、それが「続ける意味」にはならなかった。

普段なら、それで自分を奮い立たせる。

「あの子たちのために、続けなきゃ」と。

でもあの夜は、それすら、できなかった。

「あの子たちのために続ける」って、なんか、嘘くさいな、と思ってしまった。

本当はもっと、自分の問題なのに。

自分が、続けたいのか、続けたくないのか。

それを、人のせいにしている気がして。


結局、その夜、私は答えを出さなかった。

出せなかった、というほうが正確だ。

明け方近くまで、リビングで、冷めたお茶を飲んでいた。

何も決まらなかった。

決めなくていい、とも思えなかった。

ただ、時間が過ぎた。

それでも、朝は来た。

シャワーを浴びて、いつもの時間に工房に行った。

シャッターを開けると、冷たい空気の匂いがする。

木と、漆と、糊の、混じった匂い。

子供の頃から、嗅いでいる匂い。

しばらくして、年上の職人さんが、いつものように入ってきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

それだけだった。

それだけだったのに、昨夜の問いが、少しだけ、遠くなった。

消えたわけじゃない。

解決したわけでもない。

ただ、遠くなった。


あとで、ぼんやり考えた。

「続ける意味」って、頭で考えて、答えが出るものなんだろうか。

たぶん、出ない。

意味は、現場の所作の中に、小さく流れている。

シャッターを開ける時の、あの冷たい空気。

職人さんの「おはようございます」の、低い声。

新人の子が、湯のみを並べる、ぎこちない手つき。

そういう、言葉にもならない小さな動きの中に、意味らしきものが、薄く、流れている。

それは、思考では掴めない。

思考は、もっと大きな言葉で、意味を求めようとする。

「社会貢献」とか「伝統を守る」とか「雇用を生む」とか。

そういう言葉は、間違ってはいない。

でも、深夜のリビングで、一人で湯のみを握りしめている時には、何の役にも立たない。

役に立つのは、翌朝の、シャッターの冷たさのほうだった。


最近、AIを使うようになって、面白いことを思った。

AIには、何でも聞ける。

「うちの事業、続ける意味は何ですか」とすら、聞けてしまう。

実際、試しに聞いてみたことがある。

返ってきた答えは、立派だった。

文化的価値、地域経済への貢献、雇用、技術の継承——。

全部、正しい。

正しいけれど、深夜の私には、一文字も届かなかった。

ああ、そうか、と思った。

AIは、意味を「整理」してくれる。

でも、意味を「感じる」ことは、外注できない。

意味を感じる場所は、シャッターの向こう側にしかない。

冷たい空気と、低い声と、ぎこちない手つきの、向こう側。

AIがどれだけ賢くなっても、その場所には、自分の足で立つしかない。

たぶん、これからの時代、それは余計にそうなっていく。

答えを出すことは、安くなる。

でも、「自分で立ち会う」ことの値段は、上がる。


経営者の友人に、この話をしたら、笑われた。

「お前、贅沢な悩み方するなあ」と。

そうかもしれない。

つぶれそうな会社の社長は、こんな夜を過ごす暇はない。

回るようになったから、こんな問いが出てくる。

それは、ある意味、ありがたいことなのだろう。

でも、そう言われても、あの夜の冷たさは、消えない。

そして、今もたまに、あの夜は戻ってくる。

季節の変わり目とか、決算前とか、誰かが辞めると言い出した後とか。

そういう時、私はもう、答えを出そうとしない。

出ないと、知っているから。

ただ、湯のみのお茶が冷めるのを、最後まで見届ける。

明け方になったら、シャワーを浴びて、工房に行く。

シャッターを開けて、冷たい空気を吸う。

それで、また一日が始まる。


続ける意味は、わからないままでいい。

わからないまま、シャッターを開け続けることが、たぶん、続けるということなのだろう。

意味は、後からついてくるかもしれないし、ついてこないかもしれない。

それでも、現場の所作の中に、薄く流れているものが、私を翌朝に運んでくれる。

もし今、深夜のリビングで同じことを思っている人がいたら、無理に答えを出さなくていい、と言いたい。

答えを出さなかった夜が、あってもいい。

冷めたお茶を、最後まで飲み干せばいい。

朝は、勝手に来る。

シャッターの向こうの冷たい空気は、今日も、待っていてくれる。

それだけで、今夜は、十分なのかもしれない。

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