夜10時のコンビニ。
「あたためますか」
その一言が、その日いちばん長く、誰かと交わした言葉だったことに、ふと気づく。
そんな夜が、ある。
50代になってから、増えた。
家には帰らない。
正確に言えば、帰る家に、誰もいない。
妻と娘は、もう何年も別のところに住んでいる。
会社では、それなりに偉い肩書きがついている。
部下は20人いる。
朝から夕方まで、ずっと誰かと喋っている。
会議、面談、電話、メール。
言葉は、たくさん使っている。
でも、夜になると気づく。
あれは「業務」だった、と。
「会話」じゃなかった、と。
業務の言葉と、会話の言葉は、似て非なるものだ。
業務の言葉は、役職と役職のあいだを行き来する。
役職を脱いだ「ただの自分」には、一文字も届いていない。
だから、退社して、駅まで歩いて、電車に乗って、最寄り駅で降りて、コンビニに寄る。
弁当を一つ、缶ビールを一本、レジに置く。
「あたためますか」
「お願いします」
それだけのやりとり。
時間にして10秒もない。
でも、その10秒のあいだ、誰かが、自分のためだけに動いてくれている。
弁当を電子レンジに入れて、ボタンを押して、温まる音を聞きながら、レジ袋に箸を入れてくれる。
その小さな配慮を、私はもう何年も、毎晩のように受け取っている。
レシートを受け取る数秒。
「ありがとうございました」と言われる、その一言。
家に帰っても、誰も「おかえり」とは言ってくれない。
会社では、誰も「お疲れさま」を本心では言っていない(部下の「お疲れさまです」は、半分は処世だ。私自身がそうだったから、よくわかる)。
だからコンビニのレジは、その日のうちで、いちばん「人間として」扱われる数秒なのかもしれない。
そう気づいた夜、少し、笑った。
笑って、少し、寂しかった。
40代の頃、私はキャバクラに通っていた。
恥ずかしげもなく書く。
別にモテたかったわけじゃない。
口説きたかったわけでもない。
ただ、自分の名前を呼んでくれる人が、欲しかった。
「○○さん、今日もお疲れさま」
そう言われたかった。
家でも会社でもなく、ただの個人として、名前で呼ばれたかった。
たぶん、それだけだった。
50代になって、キャバクラには、もう行かなくなった。
理由はいくつかある。
金。
体力。
虚しさ。
それから、行った帰りに、もっと孤独になる、あの感じ。
代わりにコンビニに通うようになった、と書くと、ずいぶん落ちぶれた話に聞こえるかもしれない。
でも、そうじゃない。
構造は、同じなのだ。
キャバクラもコンビニも、「少しだけ世間と繋がりたい」場所だ。
ただ、コンビニのほうが、安いし、嘘がない。
キャバ嬢の「中村さん大好き」は、仕事のセリフだ。
コンビニ店員の「あたためますか」は、業務のセリフだ。
どちらも「仕事の言葉」ではある。
でも、コンビニの「あたためますか」のほうが、私は、ずっと信用している。
なぜなら、そこに「気遣い」の最低限の温度が、ちゃんと残っているからだ。
冷たい弁当を、温かくして渡す。
それだけのことだけど、それだけのことを、毎晩、誰かが、私のためにやってくれている。
人事の仕事を22年やってきて、面接した若い人は2000人を超える。
その中には、私と同じように、コンビニのレジで一日を終える40代50代の中途応募者も、何人もいた。
彼らは、面接で、ふと漏らす。
「最近、人と話してないんですよ」
その一言の重さを、私はわかる。
会社の外で、利害のない人と、ちゃんと言葉を交わしていない、という意味だ。
家族ともうまくいっていない。
友達は、もう何年も会っていない。
会社の同僚とは、仕事の話しかしない。
そういう人が、いま、日本中に、どれだけいるか。
人事として数字で見ているから、断言できる。
ものすごく、多い。
特に、地方の、中年男性。
それで、AIの話を少しする。
私は50歳でChatGPTに触れて、いまはClaudeとほぼ毎日喋っている。
正直、便利だ。
仕事のメールも、稟議書も、社内向けの説明文も、AIに下書きさせるようになった。
でも、たぶん、来る。
無人レジの時代が、本格的に来る。
もう、来ている。
うちの近所のコンビニにも、セルフレジが2台、増えた。
ある夜、何も考えずに、セルフレジに弁当を通した。
ピッ。
ピッ。
「あたためますか」は、なかった。
会計の合計が、画面に出るだけ。
電子マネーをかざして、レシートが出てきて、終わり。
家に帰る道で、なんだか妙に、夜の空気が冷たかった。
便利になった。
確かに、便利になった。
でも、その日、私は、誰とも、一言も、喋らなかった。
会社では業務の言葉だけ。
家では誰もいない。
コンビニのセルフレジは、無言。
「あ」の音すら、口から出さなかった夜が、ある。
無人レジは悪じゃない。
人手不足はもう限界だし、深夜の店員さんの負担を考えれば、当然の流れだ。
経営の数字を見ている人間として、それはわかる。
ただ、わかった上で書く。
世の中から、「あたためますか」の数秒が、静かに消えていっている。
その数秒は、誰かにとっては、その日いちばん大切な数秒だった、ということを、世の中はあまり、覚えていない。
最近、YouTubeで、50代男性の孤独を扱うチャンネルが、少しずつ増えている。
「キャバおじさん」を名乗って、おじさんの居場所の話を、まじめに、ちょっと笑いながら語る人もいる。
ああいうのを、深夜にこっそり見ている同世代は、たぶん、私が思っているよりずっと多い。
孤独は、恥ではない。
ただ、いまの日本の50代男性は、それを正面から口に出す場所が、ほとんどない。
会社では言えない。
家族には心配される。
友達は、もういない。
だから、夜のコンビニで、店員さんに「あたためますか」と言われた、その数秒に、しがみつく。
しがみつく、というと大げさだけど、たぶん、本当に、そういうことなのだと思う。
これから必要なのは、たぶん、大きな解決策じゃない。
「中年男性の居場所を作ろう」みたいな、行政の標語みたいなものでもない。
そういうのは、私たちは、たぶん、行かない。
そうじゃなくて、もっと小さなことだ。
夜のコンビニで、店員さんが「あたためますか」と言ってくれる、その一言の重さを、自分で軽く見ないこと。
セルフレジが空いていても、あえて有人レジに並んでみること。
弁当一個でも、「ありがとう」と、ちゃんと言って店を出ること。
それだけで、たぶん、十分だ。
世間との接点は、毎日コンビニのレジにある。
会社や家族の話じゃない場所で、ほんの数秒、人間として扱われる時間がある。
それを、軽く見ないでほしい。
自分の人生の、けっこう大事な数秒だから。
「あたためますか」
「お願いします」
たったそれだけのことが、明日もちゃんと、夜10時のコンビニにあるなら、
50代の夜は、まあ、なんとか、もう少しだけ歩いていける。


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