「家庭」と「職場」のどちらにも居場所がない夜

50代の心境

家に帰っても、誰も「おかえり」とは言わない。

会社に行っても、自分の席が、なんだか少し離れて見える。

そういう夜が、最近、増えてきた。

22時すぎ。

会社を出て、最寄り駅から徒歩8分のマンションに帰る。

玄関の鍵を開けるとき、いつも、ほんの一瞬、ためらう。

開けた先に、誰もいないことを、自分がもう知っているからだ。

別居して数年経つ。

子どもはとっくに独立して、別の街にいる。

家のなかは、出た時のままになっている。

朝、自分でつけた電気が、自分のためだけに点いて待っている。

テレビをつけても、誰も会話に入ってこない。

スマホを見ても、家族からのメッセージはない。

仕事関係の通知ばかりが、夜中まで小さく光る。

「ただいま」を言わなくなったのは、いつからだったかな、と思う。

◆

翌朝、会社に行く。

部長席はある。

椅子もある。

決裁書は今日も回ってくる。

なのに、ふと、自分の席が「ちょっとだけ遠い」と感じる瞬間がある。

若手の島から、笑い声が聞こえる。

自分のところまでは、その声は届かない。

届いても、自分が入っていい温度じゃない、とどこかで分かっている。

会議では、まだ意見を求められる。

でも、自分の意見が「決定」になることは、少しずつ減ってきた。

判断は、もう一段上の役員と、現場のキーマンの間で進んでいる。

自分は、間にいる。間にいるだけ、になりつつある。

家にも居場所がない。

会社にも、もう、ど真ん中の居場所はない。

それを、誰にも言えない。

言ったところで、「贅沢な悩みだ」と返ってくる気がする。

◆

なぜ、こうなるんだろう。

ずっと考えてきた。

22年、人事をやって、2000人くらいの面接をしてきて、

たぶん、ひとつだけ言えることがある。

男は、「役割」のなかにしか、居場所を作ってこなかった。

父親、という役割。

夫、という役割。

部長、という役割。

稼ぎ手、という役割。

その役割の中で、必要とされている間は、居場所がある。

子が小さい頃は「お父さん」と呼ばれて意味があった。

部下を持っていた頃は「部長」と呼ばれて意味があった。

でも、子は離れ、妻とは会話が減り、職場でも自分の判断より若手の判断が優先されはじめる。

役割が、ひとつずつ、静かに外れていく。

外れたあとに、何が残るのかを、自分でも知らない。

◆

現場で、似た人を何人も見てきた。

役職定年で、肩書きが「部長」から「担当部長」に変わった先輩がいた。

席は同じ場所のまま。

仕事も、ほぼ同じ。

でも、その人は、半年で別人みたいになった。

会議で前ほど発言しなくなった。

昼ご飯を、ひとりで早く食べて、自分のデスクに戻るようになった。

僕が「ちょっと相談いいですか」と声をかけると、ぱっと顔が明るくなる。

ああ、この人は、必要とされたい、んじゃなくて、

「いていい」と言ってほしいんだな、と思った。

別の人は、定年が見えてきた頃、急に若手の飲み会に顔を出すようになった。

最初はみんな喜んでいた。

でも、半年経つと、誘いがだんだん減っていった。

その人が悪いんじゃない。

「居場所」を、後ろの世代に求めると、たいてい、こうなる。

◆

家庭でも、似たことが起きる。

ずっと仕事を優先してきた人ほど、家に「自分の場所」を作るのが下手だ。

リビングのソファに座っても、なんとなく落ち着かない。

妻と二人で晩ご飯を食べても、話す話題が、もう、あまりない。

子どもの話が共通言語だった頃が、いちばん楽だった、と気づく。

別居をして分かったのは、

「ひとりが寂しい」んじゃなくて、

「自分は必要とされていない」が寂しい、ということだった。

夜中、コンビニに行く。

レジの店員さんが「あたためますか」と聞いてくれる。

それが、その日、自分が交わした唯一の会話だったりする。

それでも、その一言で、少しだけ、息ができる。

「世間と接続している」と感じられる、最後の細い線みたいな感じだ。

◆

そして、AIが、この状況に拍車をかけはじめている。

僕は50歳でChatGPTやClaudeを触りはじめた人間だから、

便利さも、こわさも、両方分かるつもりだ。

判断、調整、まとめ、文章化。

これまで「経験のある中堅・ベテラン」が握っていた仕事を、

AIは、けっこうな精度でこなしはじめている。

「あなたの判断が必要です」と言われる場面が、少しずつ減る。

「ChatGPTにまず聞いてみました」と若手が言う。

それが正しい時代の使い方だと、僕自身も思う。

でも、人事の現場にいると、よく見える。

役割のなかにしか居場所がなかった人ほど、

役割をAIに少し削られただけで、ぐらつく。

会社に行く意味が、よく分からなくなる。

朝、起きる理由が、薄くなる。

「自分は、何のためにここに座っているんだろう」が、

夕方、ふと、頭をよぎる。

◆

じゃあ、どうしたらいい。

正直に言うと、決定的な答えはない。

「趣味を持とう」とか「友達を作ろう」とか、

そんな簡単な話なら、誰も苦労しない。

50代になって、急に新しいコミュニティに飛び込むのは、けっこう、しんどい。

ただ、ひとつだけ、最近思っていることがある。

居場所は、もう、「与えられるもの」じゃない、ということだ。

会社が用意してくれる席。

家族が空けてくれる椅子。

肩書きが連れてきてくれる輪。

そういう「向こうから来る居場所」は、50代から先、確実に減っていく。

それは、自分が悪いんじゃない。フェーズが、そういう時期に入っただけだ。

だから、こっちから、灯しにいくしかない。

後輩が「ちょっと相談いいですか」と言ってきた時、

5分でも、ちゃんと顔を上げて聞く。

若手が出した意見に、自分の経験を少しだけ、押し付けずに足す。

家族と連絡が取れる関係なら、用がなくても、季節の変わり目に一行だけLINEを送ってみる。

別居中の妻でも、子どもでも、

返信が来なくてもいいから、

「あなたのこと、覚えてますよ」を、こっちから、小さく灯す。

居場所っていうのは、

たぶん、「自分が誰かのために灯した小さな明かり」のことだ。

その明かりの中に、ちょっとだけ、自分も、入れてもらえる。

◆

今夜も、家に帰る。

「ただいま」を言う相手はいない。

会社の席は、明日も、少し遠くに見えるかもしれない。

でも、もう、それでパニックにはならなくなった。

居場所がないんじゃなくて、

「与えられる居場所」が終わって、

「自分で灯す居場所」のフェーズに入っただけだ、と、

夜中、自分にそう言い聞かせる。

コンビニの店員さんに「あたためますか」と聞かれて、

「お願いします」と返す。

その一言が、今日の自分を、ぎりぎり、世間につなぎ止めてくれている。

それで、いい。

今夜は、それで、いい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました