なぜ千日回峰行の僧侶に、AI時代の話をしたら笑顔で頷かれたのか?

禅と精神性

老僧に、AIの話をした。

「最近、AIで、世の中が変わっていて——」

老僧は、静かに頷き、笑顔で、「それは、いいことですね」と言った。

私は、言葉が出なかった。

比叡山の研修の、最終日のことだった。

数日間、無言で坐禅を組み、写経をして、山を歩いた。

口を閉じている時間が長いと、頭の中の音が、だんだん小さくなっていく。

普段、自分がどれだけ喋っているか、どれだけ考え事をしているか、嫌というほど分かる。

その最後の日に、ある老僧と少しだけ話す時間があった。

千日回峰行を、満行された方だと、後で聞いた。

七年間、毎日山を歩き続け、途中で挫けたら自害する覚悟で、自分の足で千日歩く。

そういう修行をやり遂げた人だった。

正直、私は緊張していた。

何を話していいか分からない。

だから、つい、普段の自分の話をしてしまった。

「最近、AIというものが出てきまして、仕事がだいぶ変わりそうで——」

雑談のつもりだった。

気の利いた返事をもらおうとも、思っていなかった。

でも、老僧の反応は、私の想像のどれとも違った。

「それは、いいことですね」

そう言って、軽く頷いただけだった。

驚いたとか、興味を示したとか、そういうことではない。

かといって、無関心でもない。

ただ、雨が降ってきたと聞いたときのような、自然な相槌だった。

私は、しばらく言葉を探した。

「いえ、その、人の仕事が、なくなるかもしれない、と言われていまして」

そう付け足してみた。

老僧は、もう一度、静かに頷いた。

「そうですか。それでも、歩く人は歩きますからね」

それだけだった。

山を下りる新幹線の中で、私はずっとそのやりとりを反芻していた。

なぜ、あの人は揺れなかったのか。

七十を越えた、世捨て人のような暮らしの人が、最新テクノロジーの話を聞いて、表情ひとつ変えなかった。

普通なら、「よく分からない世界の話」として警戒するか、あるいは「自分には関係ない」と切り捨てるか、どちらかだろう。

そのどちらでもなかった。

ふと、気付いた。

老僧にとって、AIは「自分の道」とは別の話なのだ。

AIが何をしようと、千日山を歩いた事実は変わらない。

明日、もし歩けと言われたら、また歩くだけだ。

AIが代わりに歩いてくれるわけでもないし、歩いたことの意味が消えるわけでもない。

自分の一歩を、自分で持っている人は、外で何が起きても揺れない。

私は、それまで自分が、どれほど揺れていたか、初めて気付いた。

会社では、AIの話が毎日のように飛び交っている。

「経理は半分減らせる」

「採用面接はAIに任せられる」

「管理職の仕事の半分は要らなくなる」

私は人事の責任者として、社員のキャリアの相談を受ける立場でもある。

四十代、五十代の社員が、顔を曇らせて聞いてくる。

「自分の仕事、残りますかね」と。

私は、笑って「大丈夫ですよ」と言うけれど、心の中では同じことを考えている。

二十二年やってきた人事の仕事の、何割が、機械にできるようになるのか。

面接で二千人と向き合ってきた勘や、社員一人ひとりの事情を抱える重さは、AIに置き換わるのか。

夜、ふと不安になる瞬間がある。

それは、自分の道が、外の出来事で価値を測られているからだった。

AIが出てきたら、自分の価値が下がる、と感じてしまう。

逆に言えば、AIが出てくる前から、自分の価値を「外」に預けていた、ということだ。

老僧は、違った。

千日歩いた価値は、誰かに評価されて成立したものではない。

歩いた本人の中に、ある。

だから、AIが何をしようと、関係ない。

そして、ここが大事なところだが、老僧は「AIに反対」したわけではない。

「それは、いいことですね」と、にこやかに肯定した。

新しいものを否定する必要すらない、ということなのだと思う。

自分の足で歩いている人は、新しい道具が世の中に出ても、慌てない。

自分の歩みが消えるわけではないから、便利な道具なら使えばいいし、合わなければ使わなくていい。

逆に、自分の足で歩いている実感がない人ほど、新しいものに脅える。

脅えるか、飛びつくか、どちらにしても、外に振り回される。

AI時代という言葉が、独り歩きしている。

「乗り遅れるな」「使いこなせ」「変わらなければ淘汰される」

煽る言葉ばかりが流れてくる。

私自身、五十歳でChatGPTに触れて、面白くて、毎日触っている。

便利なものは、便利だ。

それは間違いない。

でも、便利さに振り回されて、自分の足元を見失ったら、本末転倒だと思う。

AIで仕事が楽になっても、自分が何のために働いているのか分からなければ、虚しさは消えない。

むしろ、空いた時間で、その虚しさが大きく見えるかもしれない。

AIを使うか使わないかの前に、自分が今日、何を一歩として踏み出したか。

そこに目を向けないと、いくら新しい道具を持っても、足元はぐらつき続ける。

帰りの新幹線で、私は手帳を開いて、こう書いた。

「自分の千日を、自分で歩く」

千日回峰行をやれ、という意味ではない。

人事の現場で、面接室で、社員との一対一で、自分が今日踏みしめた一歩を、自分で数える、ということだ。

AIが書類を作ってくれるようになっても、社員の涙の前に座っているのは、私だ。

AIが候補者を選定してくれるようになっても、最後に「あなたと働きたい」と言うのは、私だ。

その一歩は、AIには代われない。

代われないというより、代わってもらう必要がない。

それは、私の道だからだ。

老僧の「それは、いいことですね」は、AIへの賛辞ではなかったのだと思う。

「あなたも、自分の道を歩いていますか」

そう、静かに問われていたのだと、今になって思う。

AIに、何ができても、できなくても。

自分が今日、踏みしめた一歩は、変わらない。

明日も、また一歩、歩けばいい。

それだけのことだったのだ。

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