伝統工芸の現場に、AIを持ち込んだ日の沈黙

伝統産業

「これ、便利ですよ」

そう言ってノートパソコンを開いた私を、職人さんは見なかった。

工房に流れた沈黙の長さを、私は、いまでも覚えている。

数年前、父が亡くなり、私はある工房を継ぐことになった。

地方の小さな伝統産業の現場。

そこには、数十年その仕事だけをやってきた、高齢の職人さんがいた。

本業の人事の仕事と並行しながら、私は、家業の方も立て直したいと思っていた。

意気込んでいた、と言ったほうがいい。

ちょうど、AIを業務に使い始めた頃だった。

社内の事務作業がみるみる軽くなっていく感覚があって、私は確信していた。

——これは、工房にも、絶対に役に立つ。

そう信じて、私はノートパソコンを抱えて、工房に行った。

職人さんに、こう言った。

「これからは、こういうのを使えば、もっと楽になりますよ」

画面を見せながら、説明をした。

工程の記録、画像の整理、見積もりの自動化、顧客への返信の下書き。

私は、自分が「便利な未来」を運んできたつもりだった。

職人さんは、私の話を、最後まで聞いた。

うなずきもしなかった。

質問もしなかった。

ただ、自分の手元の作業を、止めずに続けていた。

「どう思います?」

私が聞くと、職人さんは、少し間を置いてから、こう言った。

「……そうですか」

それだけだった。

工房に、沈黙が落ちた。

そとから、雀の声が聞こえていたのを、覚えている。

私は、その日、自分の中で何かがうまくいかなかったことだけは、わかった。

でも、何がまずかったのかは、わからなかった。

帰り道、ハンドルを握りながら、ずっと考えていた。

説明が下手だったのか。

AIに対する偏見があるのか。

歳をとると新しいものが嫌なのか。

そんな安易な答えが、頭の中をぐるぐる回った。

正直に言う。

私はそのとき、心のどこかで、職人さんを「遅れている人」だと思っていた。

「教えてあげている」つもりだった。

それを、職人さんは、たぶん、最初の一秒で見抜いていた。

—-

しばらく経って、私は、ある場面で気づいた。

職人さんが、いつものように作業をしながら、ぽつりと、こうつぶやいたのだ。

「これしか、やってきませんでしたから」

その一言は、私にとって、雷のようだった。

職人さんにとって、その仕事は「業務」ではなかった。

「効率化の対象」ではなかった。

人生そのものだった。

数十年、毎朝同じ時間に同じ場所に座って、同じ素材を触ってきた。

その積み重ねが、その人の身体になっていた。

そこに私は、「もっと楽になりますよ」と言って、踏み込んだ。

楽にすること。

それは、合理的に見えて、職人さんの時間の意味を、軽く扱う言葉でもあった。

「あなたが何十年やってきたその時間は、AIを使えば短縮できるものですよ」

私の言葉は、職人さんの耳に、そう響いたのだと思う。

職人さんは、怒らなかった。

反論もしなかった。

ただ、黙ったのだ。

沈黙は、否定ではなかった。

考えていたのだと、私は、後になって思う。

この若い後継ぎが、何を持ち込んだのか。

自分の仕事の、どこを削ろうとしているのか。

自分の人生の、どの部分を、もういらないと言っているのか。

それを、静かに、自分の中で測っていた。

—-

このことがあってから、私は、AIの持ち込み方を、根本的に変えた。

まず、職人さんの「手」には、絶対に触らないと決めた。

素材を見極める時間。

道具を選ぶ時間。

手で覚えてきた角度や力加減。

そこは、AIに学ばせるべき場所ではないし、置き換えるべき場所でもない。

私は、職人さんの「周辺」に、AIを置くことにした。

たとえば、過去の納品先のリスト整理。

問い合わせメールへの返信の下書き。

季節の挨拶状の文面案。

価格の見積もり計算。

写真の整理と、簡単な商品説明文。

つまり、職人さんが「本当はやりたくないけれど、誰かがやらないといけない仕事」だけを、私が、AIに渡した。

職人さんの手仕事は、いっさい触らなかった。

そして、それを「効率化」とは、もう言わなかった。

「私の方の仕事が、ちょっと早く片づくようになりました」

そう言った。

それだけにした。

しばらく経って、職人さんが、私にこう言ったことがある。

「最近、書類のことで呼ばれないので、助かります」

それが、私が聞いた、いちばん大きな「OK」だった。

—-

伝統産業の現場には、外から見ると非効率に見えるものが、たくさんある。

時間がかかりすぎる工程。

説明が言葉になっていない技術。

何十年も同じやり方を変えない頑固さ。

経営者の目で見れば、「ここを効率化すれば、もっと利益が出る」と言いたくなる場所が、いくつもある。

私だってそう思う日もある。

でも、AIの時代だからこそ、私は思うのだ。

その「非効率」の中にしか残せないものが、たしかにある。

職人さんの手の動きは、文字にできない。

文字にできないものは、AIには、学ばせきれない。

職人さんが亡くなったあとに、AIがその仕事を完全に引き継ぐことは、たぶん、できない。

だからこそ、いま、私たちが守るべき場所と、AIに渡してもよい場所を、誰かが分けないといけない。

その「線を引く」役目は、若い後継ぎや、経営者の仕事だと思っている。

—-

AIを使えること自体は、もう、特別なことではなくなった。

これから問われるのは、

「どこに、AIを、使わないでおくか」

ということだ、と私は感じている。

職人さんの仕事に、AIを差し込まない。

職人さんの人生に、効率という物差しを当てない。

そのうえで、職人さんの周りにある雑務だけ、静かに、AIに渡す。

伝統を守るというのは、そういう、地味な仕事の積み重ねなのだと思う。

—-

あの日の沈黙を、私は、いまでも忘れない。

あれは、拒否ではなかった。

「お前は、何をわかってここに来たのか」

そう問われていた時間だった、と思う。

私は、まだ、ぜんぶは答えられていない。

ただ、職人さんがあのとき言葉にしなかった分を、これから、私が背負っていくのだと思う。

工房の朝の光。

道具を並べる音。

ストーブの上のやかんの湯気。

その風景の中に、AIは、たぶん、要らない。

でも、その風景を、もう少し長く残すために、

私のパソコンの中だけで、AIに、静かに働いてもらおうと思う。

沈黙は、否定ではなかった。

考えている時間だった。

私は、いま、ようやくそう思えるようになった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました