「もう、辞める」
その朝、職人さんは、いつもの場所でそう言った。
私は、湯気の立つお茶を、見ていることしかできなかった。
工房の朝は、いつも同じだ。
六時半に明かりが入る。
窓から斜めに光が落ちてきて、作業台の上にうっすらと、木屑が舞う。
その光の中に、いつも同じ背中があった。
父の代から、三十年以上。
同じ椅子。同じ角度。同じ手の動き。
私が小学生のころから、その背中は、そこにあった。
その朝、職人さんは、お茶を一口飲んで、湯呑を置いて、それから、ぽつりと言った。
「もう、辞める」
長い言葉ではなかった。
理由も、日付も、なかった。
ただ、「辞める」とだけ。
会社員の退職とは、まるで違う。
人事を二十年以上やってきて、何百人もの退職を見送ってきた。
「次の会社が決まりまして」
「家庭の事情で」
「体調を崩しまして」
理由がある。次がある。再就職がある。
でも、職人さんの「辞める」には、次がない。
技術の終わりと、人生の終わりが、同じ線の上にある。
私は、何も言えなかった。
「お疲れさまでした」も違う気がした。
「もう少しだけ」も、失礼な気がした。
「ありがとうございました」は、軽すぎた。
何を言っても、薄っぺらく聞こえる気がして、口を開けなかった。
職人さんの手は、節くれだっている。
指の関節が、何十年も同じ動きをしてきたせいで、少し曲がっている。
爪は短い。
掌の中央は、固くなっている。
その手が、湯呑を持っている。
私は、ただ、その手を見ていた。
父が亡くなって、私が家業に戻ったとき、職人さんは何も言わなかった。
「大変だな」とも、
「頑張れ」とも、
「お父さんは惜しい人を亡くした」とも、言わなかった。
ただ、いつもの椅子に座って、いつものように手を動かしていた。
その沈黙が、私を支えてくれた。
言葉ではなく、毎朝そこに座っていてくれることが、私の救いだった。
だから、その朝、私も言葉を返さなかった。
返せなかった、と言うほうが正しい。
引き留めるべきだったのかもしれない。
「もう少しだけ、お願いします」と。
でも、その人の体を見ていれば、わかる。
腰が、もうもたない。
目も、細かいところが見えにくい。
朝、椅子に座るまでに、少し時間がかかるようになっていた。
引き留めることは、私のためであって、その人のためではない。
そのことを、私は知っていた。
人事をやっていると、たまに、引き留めるべきか、頷くべきか、わからない瞬間がある。
会社のためなら、引き留めるべきだ。
その人のためなら、頷くべきだ。
両方が一致することは、めったにない。
そして、職人さんの場合、頷くしかなかった。
ここ数年、AIで何ができるのか、随分試してきた。
ChatGPTにも、Claudeにも、毎日触っている。
職人さんの手の動きを、動画で撮って、AIに分析させたこともある。
角度。速度。力のかけ方。
数値にすると、たしかに、何かが見える。
「ここで〇〇度の角度を保っている」
「ここで力を抜いている」
データになる。
記録できる。
デジタル化できる。
でも、AIに、できないことがある。
その日の木の状態を、指先で感じ取ること。
湿度を、肌で読むこと。
「今日はこの木、機嫌が悪いな」と、誰に教わったわけでもなく、知っていること。
お客さんが入ってきた瞬間に、空気が変わったことに気づいて、手を止めること。
弟子に、何を言わずに、目線だけで「違う」と伝えること。
これは、データにならない。
少なくとも、今のAIには、ならない。
職人さんがいなくなった工房は、しばらく、静かになった。
椅子は、そのままにしてある。
掃除はするが、誰も座らない。
座れない、と言うほうが、正しい。
新しい若い人が、入ってくれた。
二十代。
熱意はある。手も器用だ。
でも、まだ、空気が読めない。
それは、当たり前のことだ。
三十年、同じ場所に座って、初めて、空気が読めるようになる。
それまでは、ただ、座り続けるしかない。
私は、AIを、否定しない。
むしろ、使い倒している。
職人さんの動きを動画で残し、解説を文字起こしし、データベースにしている。
「型」だけは、残せると思っている。
型がないと、若い人は、ゼロからになってしまう。
それは、酷だ。
でも、「型」の外側にある何かは、結局、その椅子に座り続けた人にしか、宿らない。
毎朝、同じ時間に、同じ場所に。
雨の日も。雪の日も。
家族と喧嘩した日も。
体調が悪い日も。
座り続けた人にしか、宿らないものがある。
AIは、その「座り続けた時間」を、肩代わりはできない。
辞めていった職人さんから、後日、はがきが届いた。
短い文だった。
「お元気で。お父さんによろしく」
それだけだった。
私は、しばらく、そのはがきを、机の引き出しに入れたまま、何度も読み返した。
今でも、引き留めるべきだったのか、と思うことはある。
でも、たぶん、頷くのが正しかった。
辞めていく職人さんを、ちゃんと見送ることも、継承の一部なのだと思う。
引き継ぐとは、技術を受け取ることだけではない。
去っていく背中を、見送ることでもある。
工房の朝は、今も、同じ時間に明かりが入る。
斜めに光が落ちて、木屑が舞う。
椅子に座っているのは、別の人だ。
でも、光は、同じだ。
その光を見ながら、私は思う。
何十年か後、今、椅子に座っているこの若い人も、いつか「もう、辞める」と言う日が来る。
その日、私はもう、いないかもしれない。
それでも、誰かが、湯呑を見つめながら、何も言えずに、頷くだろう。
その沈黙が、続いていく限り、たぶん、この工房は、続いていく。


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