朝7時、メール一通。
「お客様のアカウントは、停止されました」
私が、最初にしたのは——返信ではなく、ノートを開くことだった。
副業のAmazon物販を、それなりの規模まで育てていた頃の話だ。
年商で言えば、本業の年収を、月で軽く超えるくらいになっていた。
倉庫を借りて、人も使って、表向きは順調に見えた。
でも、その世界にいる人なら知っている。
アカウント停止のリスクは、いつも、机の上に置いてある拳銃みたいなものだ。
撃たれるまで、誰も、本気で怖がらない。
その朝、私はパジャマのまま、スマホを握りしめて、しばらく動けなかった。
文面はテンプレート。
理由のところに、こちらの心当たりが、ある、と言えばある、ない、と言えばない、そういう文言が並んでいた。
頭の中で、いろんなことが、同時に走った。
倉庫に積んである在庫。
来月の支払い。
スタッフへの給料。
家族には、まだ、規模の話はちゃんと伝えていなかった。
本業の方に、何か影響が出たら、どうしよう。
たぶん、5分くらい、固まっていたと思う。
それで、私は、立ち上がった。
何をしたか。
返信文を書き始めた、わけじゃない。
妻に電話した、わけでもない。
仲間に相談した、わけでもない。
私は、机の引き出しから、ノートを取り出した。
そして、3行だけ書いた。
「いま、心拍が速い」
「コーヒーの味が、しない」
「右手が、震えている」
これだけ。
それ以上は、書かなかった。
なぜ、そんなことをしたか。
22年、人事をやってきたからだ。
人事の仕事は、表向きは、採用と評価と労務だけれど、本質は違う。
動揺している人間を、何百人と見てきた、というのが、本当のところだ。
懲戒の通告を、向かいの椅子で受けた社員。
身内の不幸で、出社できなくなった部下。
降格人事を、私の口から伝えなければならなかった、かつての先輩。
家族の介護で、限界を超えていた、中堅社員。
動揺している人間は、必ず、判断を誤る。
これは、絶対の法則だ。
しかも、本人は、自分が動揺していることに、気づいていない。
「いや、私は冷静です」
そう言いながら、退職届を、その日のうちに書いてしまう人を、何人も見た。
「もう、考えました」
そう言いながら、家を売る判断を、3日で決めてしまう人もいた。
人事の現場で、私が学んだのは、ひとつだけだ。
動揺している自分を、まず、外から見ろ。
それしか、ない。
だから、あの朝、私はノートを開いた。
心拍。
味覚。
手の震え。
身体の状態を、3つだけ、文字にした。
書き終えた瞬間、不思議なことに、震えが、少し止まった。
たぶん、自分が、自分の観察者になった、ということだと思う。
「ああ、いま、私は、動揺している」
それを、はっきり、認めることができた。
そこから先は、早かった。
ノートの次のページに、今日やることを、順番に書いた。
ひとつ、お湯を沸かす。
ふたつ、コーヒーを淹れる。
みっつ、メールの原文を、もう一度、最初から読む。
よっつ、利用規約の、該当条文を、確認する。
いつつ、過去の出荷ログを、見直す。
むっつ、誰かに連絡するのは、それが、全部、終わってから。
この順番を、間違えていたら、私は、たぶん、その日のうちに、感情だけで何かを送ってしまっていた。
異議申立てが通るかどうかは、最初の一通で、ほぼ決まる。
感情で書いた一通は、向こうのテンプレ返信で、終わる。
それを、知っていた。
知っていたのに、ノートがなければ、たぶん、感情で書いていた。
結果から言うと、その案件は、時間はかかったけれど、最終的には、復活した。
無傷ではなかった。
商品の一部は、戻ってこなかった。
学びの授業料は、それなりに、払った。
でも、本業は、守れた。
家族にも、変な形で、心配をかけずに済んだ。
いま、AIの時代になった。
50歳を過ぎて、私もAIを使い始めた。
正直、便利だ。
「Amazonのアカウント停止に対する、異議申立て文の構成を教えて」
そう聞けば、3秒で、悪くない構成案が、返ってくる。
過去の判例めいた情報も、出てくる。
利用規約の、関連しそうな条項も、教えてくれる。
たぶん、これからの時代、危機対応の「手順」は、ほとんどAIが出してくれる。
中小企業の経営者にとっても、これは、大きな変化だ。
弁護士に電話する前に、まず、AIに、状況を整理してもらう。
それで、十分なケースは、確実に、増えていく。
でも、ひとつだけ、AIには、できないことがある。
最初の3分の、自己観察だ。
「いま、私の心拍は、速い」
「いま、私の手は、震えている」
「いま、私は、コーヒーの味が、わからない」
これを、自分で気づいて、自分で書き出すこと。
これだけは、AIが、肩代わりしてくれない。
なぜなら、動揺している本人は、まず、AIに質問する前に、感情で動いてしまうからだ。
ChatGPTを開く前に、返信ボタンを押してしまう。
Geminiに聞く前に、家族に電話して、不安を、撒き散らしてしまう。
AIに相談するという、その判断自体が、もう、冷静さの上に、乗っている。
だから、順番が、大事だ。
危機が来たら、まず、ノートを開く。
身体の状態を、3つ書く。
それから、AIに聞く。
それから、人に相談する。
それから、行動する。
この順番を、自分の中に、組み込んでおくこと。
それが、AI時代の、現場の人間に、求められている、たったひとつの教養だと、私は思っている。
偉そうなことを、書いた。
でも、私自身、いまだに、危機が来ると、最初の数秒は、固まる。
人間だから、当たり前だ。
固まること自体は、悪くない。
固まったまま、動かないこと。
それだけが、危ない。
机の引き出しに、一冊、何でもいいから、ノートを入れておいてほしい。
スマホのメモでも、いい。
明日、何か起きた時。
返信ボタンより先に、そのノートを、開いてほしい。
そして、3行だけ、自分の身体のことを、書いてほしい。
たぶん、それだけで、あなたは、あなたの一番大事なものを、守れる。
それくらいの力が、たった3行の、自己観察には、ある。
私は、そう、信じている。


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