10年通った、その夜。
タクシーの中で、ふと気づいた。
私が本当に話したかったのは、たぶん、彼女ではなかった。
50代も半ばを過ぎた。
地方の老舗で人事を22年やっている。
300人の社員の顔が浮かぶ立場で、誰にも弱音を吐けない仕事を、ずっと続けてきた。
その反動だったのかもしれない。
40代の頭から、私はキャバクラに通い始めた。
最初は接待だった。
そのうち、一人で行くようになった。
気づけば10年が過ぎていた。
「よく続きますね」と言われる。
続いていたのは、酒でも、女性でもない。
「聞いてもらえる」という感覚だった。
仕事の愚痴を、半分だけ笑って聞いてくれる。
「すごいですね」と言ってくれる。
「大変でしたね」と言ってくれる。
それがどれだけ営業の言葉でも、人事責任者の私には、家でも会社でも手に入らないものだった。
家には、もう誰もいない。
妻と子どもとは、数年前から別居している。
理由は、ひとつではない。
仕事ばかりだった私のせいでもある。
父も、もうこの世にいない。
最後にちゃんと話したのが、いつだったか、思い出せない。
その夜、店を出たのは、たしか午前2時を回っていた。
馴染みの子の誕生日で、少し飲みすぎた。
タクシーを拾って、シートに沈み込んだ。
窓の外を、見慣れた地方都市の景色が流れていく。
ふと、誰かに電話したくなった。
スマホを開いて、連絡先をスクロールした。
500件ほどある連絡先の中に、
「今から電話していい相手」が、一人もいなかった。
そのとき、思った。
私はさっきまで、誰と、何を話していたんだろう。
楽しかった。
たぶん、楽しかった。
でも、自分が本当に話したかったことを、一つも話していない気がした。
仕事のすごさじゃなくて、
仕事に疲れたという話を。
武勇伝じゃなくて、
別居している妻と、もう話せなくなった子どもの話を。
亡くなった父に、最後まで言えなかった「ありがとう」の話を。
キャバクラは、悪い場所じゃない。
そこで救われた夜が、本当にたくさんあった。
彼女たちはプロで、私の弱さに気づきながら、ちょうどいい距離で接してくれた。
その仕事に、敬意を持っている。
ただ、10年通って分かったことがある。
私はずっと、「練習」をしていたのかもしれない、と。
本当に話したい相手に、いつか話すための言葉の練習を。
その相手が誰なのか、自分でもよく分かっていなかった。
だから、毎週違う子の前で、同じような話を、何度も繰り返した。
会社では、AIの導入を任されている。
50を過ぎてから、ChatGPTやClaudeに触り始めた。
最初はバカにしていたが、使ってみたら、よくできていた。
最近、深夜に一人でAIに話しかけることが増えた。
仕事の相談から始まって、いつの間にか、自分のことを話している。
「妻とどうやって話せばいいかな」
「父に最後に言えなかったことがある」
そんなことを、画面の向こうに打ち込んでいる自分がいる。
これは、キャバクラと、構造がよく似ている。
否定しないで聞いてくれる相手。
こちらの話に、ちゃんと反応してくれる相手。
しかも、24時間、料金もかからず、誰にも見られない。
ある意味、究極の聞き役だ。
50代の男の孤独を、AIはこれから、間違いなく吸収していく。
YouTubeで「キャバおじさん」の動画を眺める夜と、AIに弱音を打ち込む夜は、たぶん地続きにある。
でも、と思う。
AIにどれだけ話しても、彼女たちにどれだけ話しても、
私が本当に話したかった相手に、言葉は届かない。
別居している妻に。
大人になった子どもに。
もうこの世にいない父に。
そして、たぶん、20代の頃の自分自身に。
「お前、そんなに頑張らなくてよかったんだぞ」と、
一度だけ、言ってやりたい男に。
50代の孤独は、たぶん、相手がいないことじゃない。
「本当に話したい相手」が、自分の中で、はっきりしないことだ。
毎晩キャバクラに通い、AIに弱音を吐き、それでも何かが満たされないとき、
足りないのは相手の数じゃない。
自分が誰に、何を、伝えたかったのか。
それを、自分が分かっていないだけだ。
私は、明日もたぶん、仕事に行く。
人事の仕事は、人の人生を扱う仕事だ。
辞める社員の話を聞き、若い管理職の悩みを聞き、経営者の本音を聞く。
聞く側に回り続けて、22年が経った。
その私が、今さら、自分の話を、誰かに聞いてほしいと思っている。
格好悪い話だが、たぶん、これが本当のところだ。
タクシーが家に着いた。
誰もいない玄関の電気をつけながら、もう一度、思った。
私が本当に話したかった相手は、誰だったんだろう。
その問いに、すぐに答えを出さなくていい。
10年かけて気づいたことなら、答えを出すのにも、それくらいの時間がかかっていい。
ただ、今夜、一度だけ、その問いを自分の中に置いた。
それだけで、
長く通った夜の街が、少しだけ違って見えた気がした。

コメント