なぜ辞める人の足音は、廊下で気づけるのか? ―退職のサインは、退職届より3ヶ月早い

人事・組織

「あ、この人、辞めるな」

そう思った相手は、たいてい3ヶ月後に、退職届を持ってきた。

不思議なのは、いつも本人より先に、こちらが気づいてしまうことだ。


人事の仕事を、22年やってきた。

300人ほどの会社で、ホテルや冠婚葬祭の現場を見てきた。サービス業は、人がいなければ何も始まらない。

採用にどれだけお金をかけても、入った数より辞める数が多ければ、会社は静かに痩せていく。

求人広告、説明会、面接。いまは一人を採るのに、何十万円もかかる。

その人が一年で辞めたら、そのお金は、ただ消える。

だから、本当に怖いのは「採れないこと」ではない。

「辞めるサインに、気づけないこと」だ。


ここで、はっきり書いておきたいことがある。

辞める人は、退職届を出す前に、必ずサインを出している。

ただ、そのサインは、書類には出ない。

人事システムにも、勤怠データにも、最初は出てこない。

どこに出るか。

廊下に出る。


長く見ていると、わかってくる。

まず、雑談が減る。

給湯室で立ち話をしなくなる。エレベーターで一緒になっても、「お疲れさまです」のトーンが、半音だけ低くなる。

机の上から、私物が少しずつ消えていく。

マグカップ、小さな観葉植物、家族の写真。

「いつ消えてもいい」状態に、デスクが整っていく。

会議では、意見を言わなくなる。

代わりに「いいと思います」が増える。賛成しているのではない。もう、関わるのをやめている。

飲み会の二次会に、来なくなる。

そして――足音が、変わる。

気持ちがまだ会社にある人の足音と、心がもう半分外に出ている人の足音は、本当に違う。

廊下を歩く速さ。床の見方。すれ違うときの、目線の高さ。

理屈ではない。22年かけて、体に染み込んだ感覚だ。


言葉だけだと伝わりにくいので、ここまでを一枚の図にまとめておく。

退職のサインが出る順番 ―退職届は、3ヶ月かけて廊下に予兆を残している 約3ヶ月前 直前 ① 雑談が減る 給湯室の立ち話が消える ③ 発言しなくなる 「いいと思います」が増える ⑤ 足音が変わる 歩く速さ・床の見方 ② 私物が減る 机から私物が消えていく ④ 二次会に来ない 場から静かに降りていく 退職届 退職代行からの電話
退職のサインが出る順番。書類に出るより、ずっと早く廊下に出る。

退職届は、ある日いきなり出てくるように見えて、本当はこの順番で、3ヶ月かけて廊下に予兆を残している。


忘れられない朝がある。

ホテルのフロントに、できる若手がいた。お客様の名前を一度で覚える、気の利く子だった。

ある朝、彼がいつもより、ずっと丁寧に床を見て歩いていた。

その瞬間、胸の奥で「あ」と音がした。

3週間後、退職代行から電話が来た。

私は、何も言えなかった。


不思議なもので、こういうサインに、社長だけが気づかない。

社長はあとから、「あいつ、最近どうなんだ」と聞いてくる。

現場は、とっくに知っている。

社長だけが、誰も残っていないオフィスで、深夜まで一人、「なぜだ」と考えている。

その姿を、私は何度も見てきた。

経営者は孤独だ。でもその孤独の半分は、情報が現場より3ヶ月遅れて届くという、構造のせいでもある。


「できる人ほど、突然辞める」と、よく言われる。

でも、本当は突然ではない。

できる人は、サインを出す相手を、選んでいるだけだ。

信頼している上司の前では、最後まで、いつも通りに振る舞う。心配をかけたくないからだ。

それは、その人の最後の優しさだ。

だから、優しい人ほど、こちらが油断する。

「あの子は大丈夫」と思った相手の名前を、私は何度、退職リストに書いただろう。


いまは、AIが離職を予測する時代になった。

エンゲージメントサーベイ、離職予測ツール。打刻、Slackの発言量、残業時間。

データを集めて、「辞めそうな人」をはじき出してくれる。

便利だと思う。私も使っている。

でも、正直に書く。

データが「この人はハイリスクです」と教えてくれたとき、本人の心は、もう決まっていることが多い。

数字は、結果を、あとから正確に教えてくれる。

予兆を、いちばん最初に知らせてくれるのは――いまでも、廊下だ。

AIにできないのは、廊下ですれ違いざまに「あれ?」と立ち止まることだ。

違和感は、数値化されない。

逆に言えば、AIが定型業務をすべて引き取っていく時代に、人事に最後まで残る仕事は、この「あれ?」だけかもしれない。


では、サインに気づいて、何をするか。

引き止めではない。

正直に言えば、足音が変わったと気づいたときには、もう手遅れなことが多い。

本当に大事なのは、サインが出るより前――その半年間に、その人とどれだけ雑談したか、なのだ。

雑談が減ってから慌てる人事は、たいてい、雑談を「無駄な時間」だと思っていた人事だ。

廊下ですれ違うときの、たった3秒。

「最近どう?」の一言。

あれが結局、いちばん安くて、いちばん効く離職対策だった。

そのことに、私は50歳をすぎて、ようやく気づいた。


22年見てきて、ひとつだけ、言えることがある。

足音に気づける人事は、その人自身を救えないことが、多い。

でも――次の人は、救える。

一人辞めるたびに、廊下の解像度が、少し上がる。

「気づけなかった」と悔やんだ夜の数だけ、次の若手の、小さな変化が見えるようになる。

人材不足の時代に、会社のいちばんの財産は、求人サイトのアカウントではない。

廊下で「あれ?」と立ち止まれる、自分の感度のほうだ。

それだけは、AIには当分、渡せない。

明日、出社したら。

いちばん静かになった人の机を、そっと見てほしい。

まだ、間に合うかもしれない。

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